アルバム・タイトルから分るように「暗い日曜日」ただ1曲を、様々なアーティストたちがそれぞれの音楽性で染め上げている。
でも、いま、なぜこの曲なんだろう。
当然の疑問が湧く。実は映画「暗い日曜日」(監督・脚本:ロルフ・シューベル)が5月25日から公開されるのに合わせた企画ものだ。
ひとりのアーティストが歌ったヒット曲の数々を、多数の別のアーティストたちが歌うという形での「トリビュート」アルバムは多い。が、1曲のみを多彩なヴァージョンで、というのはそう多くはない。そうした試みに耐えるほどの曲も少ないということなのだろう。
このように一堂に会したスタイルは始めての試みではあるけれど、しかし、これまでに何人もいる。
正直言って、シャンソンを聴き始めた頃から好きになれなかった曲だった。歌詞があまりに暗く、救いのない内容だから。
この歌の主人公“私”は花束を抱え、二人の思い出の部屋に入る。立ち去った恋人を思いながら、“私”は死んでゆく、両の目を見開いたまま。いつかはこの部屋にやって来るだろう恋人にこう言い残す。「でも あなたを見ることのできない 私の目を怖がらないで」…。
発表当時の1930年代、ラジオアから流れるこの曲を聴いて自殺する人が続出し、放送禁止の憂き目に遭ったという。
そうしたことを知るにつれ、さらにこの歌が重苦しく感じられたのだった。どんなに辛い、悲しいことを歌っても、どこかに希望のかけらでも見出せるものが僕は好きだ。歌を聴いてたっぷり涙を流したら、よし、また明日から新しい一歩を踏み出そう。シャンソンでも、ポピュラーや歌謡曲でも、そんな気持ちにさせてくれる歌がいい。その思いはいまも変わらない。
こうした歌を否定するつもりはないけれど、僕には打ち震えるほど共感できないまま、今日まできたことを告白しておこう。
が、僕のつまらない感慨はそこまで。
こうして改めて聴き返してみるとこの曲、メロディーは実に心にしみるものを持っているな、と思う。
特にテルミンを使ったROM-chiaki(2)や、サブ&まみのアコーディオン演奏ではその感を強くする。聴く者の心をつかまえずにはおかない、その哀切さがストレートに迫ってくるようだ。
どんなスタイルや思い入れを込めて歌われても「暗い日曜日」が存在感のある曲であることを、このアルバムは示した。
シャンソン・フランセーズの流れに位置する歌としては、やはりダミアの抑えた歌い方が印象的で。10曲目で聴くことができる。
冴木杏奈(7)の安定したヴォーカルはあまり感情を入れ過ぎないところが聴きやすく、歌詞がこちらの耳にしっかり届く。
薩めぐみ(8)の声を久しぶりに聴いた。芝居の語りのような歌い方だが、やや力が入り過ぎているようにも感じられる。
「暗い日曜日」をモティーフに、オリジナルな朗読劇に仕上がっているのが、夏木マリ(9)。芝居という観点から言えば、台詞まわしが断然優れている。ひとふしくらい歌ってくれたら、と思うのは欲張りすぎだろうか。
何といっても歌に力があるのは新井英一だ。(6)魂のヴァイブレーションが彼の周囲の空気を震わせ、聴く者の耳と心を内側から揺さぶるのだ。やるせない思いが、痛いほどに伝わってくる。
こうして「暗い日曜日」は“伝説”と手を携えながら時代を超えた。