♪「シャンソンを貴方に…」〜シャンソン情報TV番組オンエアのご案内〜
東京メトロポリタンテレビジョン(MXTV)・群馬テレビ(GTV)において毎回多彩なゲストをお迎えして見ごたえのある30分番組となっています。
[出演]芦野宏/小林力(p)他 [監修]大野修平
   
☆TOKYO MXTV⇒
10月2日(木) 21h00〜21h30 ゲスト:有光雅子
10月16日(木) 21h00〜21h30 再放送
11月6日(木) 21h00〜21h30 ゲスト:深緑夏代
11月20日(木) 21h00〜21h30 再放送
12月4日(木) 21h00〜21h30 2003年総集編
12月18日(木) 21h00〜21h30 再放送
  ☆群馬テレビ⇒
10月8日(水) 22h00〜22h30 ゲスト:有光雅子
10月15日(水) 22h00〜22h30 再放送
11月12日(水) 22h00〜22h30 ゲスト:深緑夏代
11月19日(水) 22h00〜22h30 再放送
12月10日(水) 22h00〜22h30 2003年総集編
12月17日(水) 22h00〜22h30 再放送
この「修平のひとりごと」は、2ヶ月ごとに削除いたしますので、必要な方はご自分で保存してください。(管理人)
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シンプルで優しくて  10月10日(木)曇り

 

 表題に掲げた言葉は実はシャルル・トレネのシャンソン《Simple et tendre》から拝借した。1951年に発表されているから「詩人の魂」《L'ame des poetes》と同じ時期だ。
 この「シンプルで優しい」という言葉は、トレネのあらゆる作品に当てはまる要素と言えるだろう。

 この形容が当てはまるシャンソン・フランセーズ界の長老がもうひとりいる。アンリ・サルヴァドール。今年で86歳。
 白を基調とした作りのステージに白のスーツ姿で背筋を伸ばして立ち、時にジョークを交えて歌ったシアター・コクーンでの去年のリサイタルを思い出す。
 立居振舞い、歌い方、喋りのすべてに余裕を感じさせる。ゆったりとした、寛いだ時が僕たちを包み込んだ。そう、コクーン(繭)みたいに。

 ああいう風に年を取りたいな、と思わせる魅力に溢れた小粋な男。
 音楽ひと筋に歩んできた人生の途上のあちこちで手に入れ、身につけた英知や勇気がエレガンスを伴って、ステージでもそれ以外の場所でも花開く。ごく自然に。
 そのアンリ・サルヴァドールがこの秋に新しいアルバムを出す。フランスでは10月18日、日本ではひと月遅れの11月19日に店頭に並ぶ。

 そのことを知らせてくれたのはEMIフランスのティボー・カザノヴァ Thibaut Casanova さん。(カザノヴァって、あの色男と関係あるのかな。失礼になるといけないので尋ねてはいないけれど)メールにeカードを添えて送ってくれたのだ。
 期待に胸を弾ませながら開いてみた。「ここをクリック」"Cliquez ici"という指示に従う。と、するすると動画が始まる。

 アンリ・サルヴァドールの新曲のミニ・クリップじゃないか!
 スローテンポの音楽に乗って、シンプルで優しい声が流れてくる。身も心も癒される、あの声。
 アルバム・タイトルにもなっている曲「愛しい君との愛しい時間」《Ma cher et tendre》。

Ma cher et tendre
Les chose n'ont pas change
Dans le sac et la cendre
J'ai presque tout laisse
Plus rien ne peut surprendre
Mon coeur envisage
Je suis pret a t'attendre
Ici ma chere et tendre

愛しく 優しい人よ
物事は変わってはいないよ
このバッグと灰のなかに
私はほとんどすべてを置き去りにした
もう 何ひとつ驚かすものはない
心ははっきりと決まっている
きみを待つ用意ができているのさ
ここでは 愛しく 優しい人よ

 カザノヴァさんから転載の許可をいただいたので、ぜひみなさんとひと足先にシンプルで優しい声を味わう喜びを分かち合いたいと思う。

 画面下にあるURLをクリックすれば映像と音楽を楽しむことができます。折しも明日から三連休。自分自身を取り戻すことができるでしょう。

 日頃は文字数の多いこの欄だから、今日は控えめにしておこう。アンリ・サルヴァドールが歌っているのを聴いたら、僕の駄文などお呼びじゃなくなるだろうから。

 彼自身の言葉を借りて締めくくることにしたい。自伝《Attention ma vie》(ed.JClattes 1994)のなかにこんな文章がある。

音楽はあらゆるほかの芸術と同じように国境はない。あらゆる場所からやって来る影響を糧とするものだ。私にはただひとつの判断基準しかない。それはクオリティだ。(同書p.128)

La musique, comme tous les arts, n'a pas de frontieres, se nourrit des influences venues de toutes parts et je n'ai qu'un critere de jugement:la qualite.

 カザノヴァさんはご親切にも、アルバムの見本盤も送ってくださった。ケレン・アン、詩人ベルナール・ディメ、「パリの空の下」の作者としてあまりにも有名なジャン・ドレジャックといった素晴らしい才能の持ち主たちの曲が並んでいる。
 聴いているうちに書きたいことが頭をもたげてくるけれど、このくらいにしておこう。先に挙げた自伝の末尾でサルヴァドール自身がこう締めくくっているのを思い出したから。

書く前に決して忘れてはいけない。白いページの華麗さを。
    (同書p.306)

Avant d'ecrire, n'oubliez jamais la splendeur de la page blanche.

 脱帽したくなってくる。
 では、アンリ爺さんの声をどうぞ。Monsieur Henri Salvador,a vous!

(写真をクリックしてください)

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アンリ・サルヴァドール Henri SALVADOR 《Ma chere et tendre》
『愛しい君との愛しい時間』(2003年11月19日発売)より
〜Avec l'aimable autorisation de Monta MIKI de TOSHIBA EMI 〜
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後の月   10月9日(木)晴れ

 

 「一番星 見ぃつけたぁ〜」なんて歌いながら、夕暮れの空に現われ始めた星を数える。僕たちの子供の頃、東京でもまだこうした遊びが行なわれていた。夕飯前、銭湯の行きがけに叔母に手を引かれながらよくそれをしたものだった。
 当時から近視だったので、首が痛くなるくらいに上を向き、目を凝らして星を探すのは骨が折れた。それでもいくつか見つけることができたのだから、いまとはずいぶん事情が違う。

 昨今、一番星やその他の星の瞬きを都会の夕空に見るのは容易ではなくなってしまったようだ。
 都会の空気が汚れてしまったせいなのか、ネオンサインなどの夜間照明が行き届き、昼のように明るくなったために星が見えにくくなったということなんだろうか。
 明るく便利になることはもちろんありがたいのだけれど、星の輝きを締め出してしまった都会の夜空の下には殺風景な眺めが広がっているようにも思える。

 それでも嬉しいことに、変わることなく夜空に輝く星がある。月だけはどんなに世のなかが明るくなっても輝きを失わずに、僕たちの頭上から光を投げかけている。せめてもの救いと言いたくなる。

 9月11日が今年の「八月十五夜」、中秋の名月だった。ススキも団子も捧げることなく、その月を仰ぎ見たことをこの欄に書いた。
 古来、旧暦十五夜の月だけを愛でるのはよくないこととされているそうだ。片方しか見ないというわけで「片月見」と言う。「片見月」と表現する場合もある。
 旧暦「九月十三日」の月は別名「後の月」。こちらもまた美しいので、これをも愛でてこそ月見の行事が完結する、と昔の人たちは考えた。風流なバランス感覚と言えよう。

 他の多くの風習と同じように、中秋の名月も元は中国で行なわれていたものが日本に伝わった。それに対して十三夜の月見は日本独特の習わしなんだそうだ。一説には、宇多天皇が「九月十三日」の月を「無双」と賞したことが始まりと伝えられている。
 十五夜には里芋などを供えるので「芋名月」、十三夜には栗や豆を供えることから「豆名月」とか「栗名月」とも呼ぶそうだ。

 この、日本独特の風習というところがいいじゃないの。いろいろと外国の真似をして今日に至っているけれど、独自の創意工夫だって昔から日本人はやってきている。風趣に富んだこうした季節の祭りもまた創り出していたというのが何だか嬉しい。

 昨日の夕方の空には雲がかかっていた。十三夜の月をはっきりと見られるかどうか、ちょっと心配になった。
 夜、日付の変わる少し前に外に出た。建物の出入口のドアを出るとすぐに、左手の空高くまばゆい月の光に照らされた。何だか月が出迎えてくれたような気がして嬉しくなった。

 この日この時の月を心待ちにしていればこそ、昔の人たちは期待通りに目の前に姿を見せてくれる月を称賛し、感謝の念も抱いたのだろう。そんないにしえの人々の気持ちも分るような気がしてきた。これも月の魔力かな。

 雲はとっくにどこかへ行っていた。
 よく見ると、月の形が少し変わっている。まん丸ではない。上部がちょっとへこんで洋梨みたいな感じだった。僕の住んでいる界隈だけそんな風に見えたわけじゃないと思うんだけれども。
 満月ではなくても、なるほど「後の月」も冴え渡った輝きを見せてくれるものだと納得。
 吹き過ぎて行く風は冷たい。その風が月の表面の曇りを拭き、磨いているかのように感じられる。
 虫たちの鳴き声が澄んだ夜の空気の底から響いてくる。彼らの鳴き声が止む頃、冬は間近に迫っていることだろう。
 もう一度空を仰ぐ。月はさらに輝きを増しているようだった。

 風流を楽しむのはいいけれど、風邪をひいてしまっては元も子もない。家に戻る。
 十三夜にまつわるエピソードがないかなとインターネットで調べてみることにした。
 松尾芭蕉の句があった。

 木曽の痩せもまだなほらぬに後の月

 芭蕉が名古屋から『更科紀行』の旅に出たのが貞享5年(1688年)8月11日。15日に更科に着く。平安時代から月の名所として名高かったその地の姨捨山で、芭蕉は十五夜の月を観賞した。
 深川の草庵に戻り、「九月十三日」の月を眺めた折の句会で作られたのが上に掲げた句。越智越人、山口素堂らが同席したと伝えられる。
 木曽路のうちにある更科から帰って来た時、芭蕉は旅の疲れで痩せていたのだろう。それでも「後の月」を見ないではいられないという、風流人の心意気といったものがにじみ出ているようだ。

 更科は長野県北部にある。ところが「姨捨山」の正確な位置は分っていない、と同県戸倉町のサイトには記されている。「強いていうと、戸倉町、更埴市、東筑摩郡坂井村、同郡麻績村、上山田町などにまたがる山々の総称です。中には更埴市から長野市篠ノ井にかけての山だろうという説もあります」。
 いまは、「姨捨山」といえば、更埴市八幡(やわた)のJR姨捨駅周辺を指していうことが多いとも出ている。

 この駅の下方に広がる棚田は一枚一枚がとても小さく、姨捨山にかかる月がそのそれぞれの田の水面に映って見えたので「田毎(たごと)の月」と称した、との記述もある。これまたいい表現だと思う。

 それにしても月見の名所が「姨捨山」というのも不思議な取り合わせだ。風流と残酷が隣り合わせになっているように思える。山中に捨てられた老女はどんな心持ちで月を眺めたのだろうか。
 その地が月の名所となり、多くの旅人が訪れるようになった。そのことが捨てられた老女たちへの供養にもなったろうか。
 「姨捨山」見る月には凄味もあったかもしれないな。

 「後の月」が明けて今日は二十四節季の「寒露」。朝夕の冷気が草の葉に露を結び、山の木々の葉も色づき始める頃だ。稲刈りもあちこちで終わりを迎える時期とはなった。
 今年は米が不作だという。さて、わが身を振り返って今年の収穫はいかに。

   


   

ちょっとした“詩”に同感した  10月8日(水)曇り

 

 当サイトには無料の書き込みスペースを設けてある。コンサートやリサイタル、新譜を発表した方たちのための「情報告知板」"Tableau d'annonces"で、トップページの上部に目立つように配置してある。
 日本各地で活動されているみなさんにご利用いただいている。フランスからも告知を寄せてくれる人たちもいて賑やかだ。主宰者としては、当サイトをご訪問のついでに覗いていただきたいページだと思っている。こういうことを可能にしてくれるんだから、やっぱりインターネットってものすごく便利だ。
 フランスへ行く予定のある方、「何かシャンソンの催しやライヴを観たり聴いたりしたい」という場合にはこの欄を参考になさってみてはいかが。

 その「情報告知板」に先日、またフランスからの書き込みがあった。
 レ・ザンシャントゥール Les Enchanteurs という団体からのもの。パリのライヴハウス「ル・レゼルヴォワール」"Le Reservoir!で「ラ・フレンチ・アティテュード」"La French Attitude"なるライヴを開催する、との案内だ。

 その店名に懐かしさを覚えた。「ル・レゼルヴォワール」とは、タンクや貯水槽、貯水池などを意味する単語。これから世に出て注目を浴びる新人や若手アーティストたちがいっぱい溜まってるよ、という店側の思惑なんだろう。
 今年も11月19日から3日間、荻窪・東信閣でシャンソン・ライヴを行なう僕の友人、エリック・ルブロー Eric Lebraud が5年ほど前にそこで照明のアルバイトをしていた。彼を訪ねて行ったことを思い出して懐かしくなったのだ。

 バスティーユ広場からフォーブール・サン・タントワーヌ通りに入る。庶民的な雰囲気の漂う界隈だ。サントル・ド・ラ・シャンソンのクリスティアン・マルカデ Christian Marcadet の家もこの近くだ。
 しばらく歩くとフォルジュ・ロワイヤル通りが左手に見えてくる。そこを折れてすぐの所に「ル・レゼルヴォワール」がある。
 その斜め前あたりにアラブ料理のレストランがあって、エリックの休憩時間に一緒に熱々のタジーンなどを食べた。僕は猫舌なので彼の休み時間を無駄にしはしないかと気が気ではなかった。

 その「レゼルヴォワール」を舞台に毎月最終日曜日、新人やグループをプロデュースしようという企画が始まる。主宰するのはレ・ザンシャントゥール(魔法使いたち)。どんな魔法をかけてくれるのか、いつか機会があったら訪れてみたい。

 レ・ザンシャントゥールもサイト(http://www.les-enchanteurs.com)を持っている。彼らがどんな活動をしているか興味を抱いたので、さっそく訪れてみた。なかなか楽しそうな気分がページから伝わってくる。

 トップページの一番下に1本の記事を見つけた。
 こういうタイトルがついている。《Un CD a l'ecoute Ou comment ecoute-t-on un CD chez les Enchanteurs...》「1枚のCDを聴く またはレ・ザンシャントゥールではどのようにCDを聴いているか」。
 カトリーヌ・トゥヴナン Catherine Thouvenin さんという女性が書いたものだ。

 軽い気持ちでその記事をクリックしてみた。CDを聴く際の心構えがちょっとした“詩”のような形で綴られている。読んでみると思わず膝を叩きたくなることが書いてあった。どれもこれも、僕がCDを聴く場合にしているのとまったく同じなのだ。何度も読み返しているうちに、ますますカトリーヌさんの“詩”に惹かれていった。

 そこで、これは僕ひとりだけで楽しんでいてはいけない、当サイトの来訪者のみなさんにも読んでいただきたいと思うようになった。
 善は急げ。カトリーヌさんにこの“詩”「Webサ・ガーズ」に掲載してよいかどうか許可を求めるメールを書いた。
 嬉しい返事はすぐに来た。「サ・ガーズ」とは「さっさと事を進める」という意味もあるから、カトリーヌさんはそのニュアンスを酌んでくれたのかもしれない。返信にはこうあった。

> (...)sachez que suis egalement tres contente que ce petit texte puisse
> vous toucher et je vous donne l'autorisation de le recopier en entier.

> 小文があなたの心を動かすことができるなら嬉しく思います。全文を使ってもよろしいですよ。

と、好意的な文章だった。

 前置きが長くなったけれど、カトリーヌさんの“詩”の原文と対訳をどうぞお読みください。

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(原文)
Un CD a l'ecoute
Ou comment ecoute-t-on un CD chez les Enchanteurs...

Pour ecouter un CD
il me faut d’abord etre bien installee
dans un fauteuil.
Ensuite je me munis d’un crayon
et d’une feuille.
Je ne lis aucune coupure de presse,
aucun historique
pour eviter toute influence, je reste stoique
Je mets mon casque
et j’appuie sur la telecommande.
Je veille a ce que personne ne me demande.
Mon attitude a cet instant
est toute bienveillante :
j’ai envie d’aimer,
j’ai envie qu’il m’enchante,
je veux etre surprise,
que l’emerveillement soit de mise.
Enfin commence le premier morceau
et mes…. premieres notes… couchees sur le papier.
Le mixage est-il bien realise ?
Les paroles sont-elles bien mises en avant ?
La voix est elle sensible ? drole ? juste ? touchante ?
Les melodies variees ?
Les arrangements bien orchestres ?
Textes et musiques vont-ils bien ensemble ?
Si l’envie me vient d’effectuer un zapping,
Alors ce n’est pas tres bon signe
A la cinq, a la six, a la sept a la huit
Je prends encore quelques notes
Quand un avis defavorable me vient a l’esprit
Alors je reecoute le CD pour tenter de le ≪ repecher ≫
Pour y trouver des circonstances attenuantes
Enfin vient le moment de rendre la copie
Pour dire oui,
Mais aussi pour dire non
Les mots, eux aussi entrent dans la danse.
Tantot je detaille, tantot je condense.
Il me faut trouver les mots les plus justes,
les plus fideles a ma pensee
Ai-je (ou pas) ete touchee ?
Emue ? Surprise ? Derangee ?
C’est au final une histoire de coeur,
ai-je eu un petit moment de bonheur ?
J’imagine tout le travail des artistes
Des heures durant sur leur papier
et a leur instrument.
Et ces espoirs,
que je rudoie en une missive
Mais je ne peux m’empecher de penser
qu’il ne faut pas dramatiser,
J’ai envie de leur dire que ce n’est qu’un avis,
le mien.

Par Catherine Thouvenin

   
(対訳)
1枚のCDを聴く
またはレ・ザンシャントゥールではどのようにCDを聴いているか

1枚のCDを聴く
まずはソファにちゃんと
腰掛けなくては。
それから 鉛筆と
紙を1枚手に取る。
いかなる新聞や雑誌、
伝記的な事柄にも目を通さない
あらゆる影響を避けるために ストイックに留まる
ヘッドフォンをつけ
リモコンのボタンを押す。
誰にも求められないことに注意を向ける。
この時点では
私の姿勢はまったく好意的だ:
好きになりたいと思っていて、
そのディスクが私を魅了してほしいとも思っているし、
驚嘆すべきものによって
はっとさせられたいとも望んでいるのだ。
ついに 最初の曲が始まる
そして私の… 最初のコメントが… 紙の上に記される。
ミキシングは十分に行われているだろうか
歌詞は前に出ているだろうか
声ははっきりと感じられるか おかしいか 正確か 胸を打つものだろうか
メロディーは多彩だろうか。
アレンジはしっかりとなされているだろうか
歌詞と音楽とはうまく調和しているだろうか
いま聴いている曲を飛ばして
5曲目、6曲目、7曲目、8曲目へ飛びたくなったら
それはよくない兆候だ
私はまだノートを取り続ける
好ましくない意見が思い浮かぶ時
そのCDを“救い出す”ためにまた耳を傾ける
情状酌量の余地がないものかと
やっと 諾(よし)とか否とか
告げることのできる
瞬間がやって来る
言葉の群れも参加する
ある時は細部をあげつらい、ある時は要約し、
最も公平で 私の考えにふさわしい
言葉を見つけ出さなければならない
私は感動した(あるいはしなかった)のだろうか
心を動かされた? 驚いた? 心を掻き乱された?
この心の物語のおしまいに
私は幸せな一瞬を過ごしたのだろうか
私は想像する アーティストたちのあらゆる仕事を
紙や楽器の上に身をかがめて
過ごした時間を。
そして私が書くもののなかで手荒に扱うのでは という思いをも
でも 私は誇張するべきではないと
考えずにはいられない
アーティストたちに言いたい これは
私の意見に過ぎないのだ、と

カトリーヌ・トゥヴナン

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 繰り返すけれど、これは僕がCDを聴く時の態度とまったく同じだ。まずは偏見とか先入観を排して耳を傾ける。よほどのことがない限り、次々と曲を飛ばして聴くということはしない。
 だから何枚も聴くと疲れてしまう。それで「ディスクガイド」を書かなきゃとは思いながらも、ついつい後まわしにすることになる。

 転載を快諾してくれたカトリーヌさん、どうもありがとうございます。
 これからも彼女が書いた「心得」を守ってCDを聴き続けていきたいと考えている。

   


   

行 雲 流 水  10月7日(火)晴れ

 

 こうして「ひとりごと」を書いている時には、嫌でも自分と向き合うことになる。正直言って気分が乗る時もあれば、そうでもない時だってある。いくら好調とはいっても5分や10分で書き上げられるわけじゃないし。

 書こうと思うテーマがすぐに見つかる場合は楽だ。芯になる部分があるわけだから、あとはそれを展開するように考えを進めて行けばい。考えを深めるのか、広げるのか自分でもよく分らないけれど、一気呵成に書ける時は実に晴れ晴れとした気分になれる。
 が、それが毎日続くほど世のなかは甘くない。書くべきことが決まらず呻吟する場合も少なくない。

 「行雲流水」という言葉に憧れる。
 北宋の詩人・蘇軾(1036〜1201)が「謝民師に答うる書」のなかに記した、とものの本にある。それらの解説から引用させて貰うことにしよう。原文は次のとおりだそうだ。
 「嘗て自ら謂う、文を作ること行雲流水の如く、初めより定質なし」。

 尾崎秀樹さんがこの一文をこう読み解いてくれている。

「文章は行く雲、流れる水のごとく、行く所を行き、とどまる所にとどまらなければならない」。(『日々に生きる言葉―中国の故事と語録―』実業之日本社 p.285 1997年)

 肩に余計な力のこもっていない自然体。こんな風に書くことができたらさぞ気持ちがいいだろうな。

 雲を眺めて時を過ごすのも楽しいものだ。風に吹かれて僕たちの頭上を漂って行く。まさに風来坊。
 幼い頃、雲の形にあんぱんやジャムパンを重ねて見たことがある。(いつも腹を空かせていたわじゃないけれども)
 また、本の挿絵で見かけた聖者の面差しに似ているな、と思ったこともあった。その形を少しずつ変えながら遠くへ去って行く雲を飽かず眺めていたっけ。何ものにもとらわれずに漂う姿に自由さをも感じたものだった。

 後年、ボードレールを読むようになり、散文詩集の冒頭に雲が好きな男の詩が置かれているのを知って嬉しくなった。彼もまた、流れ行く雲を目で追いながら夢想するのが好きな少年だったに違いない。

 川の水も源流、上流、中流、下流から海に注ぐまでその姿を常に変えながら流れ下る。初めは岩や石をも跳ね飛ばす勢いだった流れが、人々が多く住むあたりになると緩やかに流れる。しかし、嵐が来れば氾濫を起こすこともある。
 豊かな恵みをもたらすと同時に恐ろしい力を秘めているのが水だ。

 世のなかが様々に移ろいゆくことも「行雲流水」という。有為転変は世の習い。それを行く雲と川などの水の流れにたとえたわけだ。自然というものはこのように刻一刻と姿形を変えてゆくものなのだ。中国の人たちもその点を見逃さなかった。
 また、人の心も気持ちの赴くままに物事に応じ従い、態度や生き方が変わりゆくことを「行雲流水」と言い表わす。
 昔の人々が自然の営みをじっくりと観察し、それを人間の社会にも当てはめて考えたことがこれを見てもよく分る。ひとつの言葉がいくつもの事柄を指し示すことができる妙がここにある。

 文章の話に戻ろう。思考は行きつ戻りつ、あちらへ行ったりこちらへ行ったり、果ては飛んだりもつれたりすることもままある。初めからピシャリと起承転結が決まった形で頭のなかに立ち現われることはあまりないと言っていいだろう。
 書くという行為はそうした混沌とした思いに道筋をつけてゆくことだ。

 そこでまた雲と水の流れを思い出そう。空にレールが敷かれていて、雲はその上を走っているわけではない。川には流れるべき道はあるけれど、上流に降る雨の多い少ないによってその道を変えることもある。奔流となったらとても人間の手に負えない。
 こうして考えてみると、雲も川の水もあたかも自らの意志に基づいて振舞っているかのように見えなくもない。

 ぼんやりとしたアイディアが形をまとってゆくのを待つ。
 雲が大気中の水蒸気を集めて大きくなってゆくように、また、川が支流の水を集めて育ってゆくように、頭のなかでもバラバラだった考えが結晶作用みたいなものを起こすようになる。

 そのきっかけはいつ、どこにでも転がっている。誰かとの雑談の切れ端、道端で見かけた花の名前、書店でふと目に入った本の題名、映画の看板に書かれた言葉、TVやラジオ番組の出演者の口から出たひと言、新聞や雑誌の見出し、街角で耳にした音楽のメロディー、通りすがりの女性がつけている香水の香り、早起きのスズメの鳴き声、むせ返るような夏の草いきれ、遠い日の夕焼けの色、喫茶店から流れて来る淹れたてのコーヒーの匂い…。

 そうした何気ないものが、それまで滞っていた思考に弾みをつけてくれることもある。それに気づく心の働きをなくさないようにしたい。
 どうやら、今日はこのあたりが「とどまる所にとどまらなければならない」地点のようだ。

   


   

言葉に勇気づけられて  10月6日(月)雨

 

 やらなければならないことに対して自分が力不足ではないかと思えてしばらくスランプ気味だった、と先日書いた。
 まるで地図を持たないまま、鬱蒼とした木々の生い茂った山に踏み込んでしまったようなような思いにとらわれていた。進もうにも方向が分らない。見上げれば木立の彼方に明るい空がちらっと顔を覗かせている。が、行く手は昼なお暗い山道だ。

 やれやれ、困った。こういう時はじたばたしても仕方がない。むやみに動きまわって体力を消耗してもいけない。運悪く嵐に遭遇してしまうかもしれない。悪あがきをして、とんでもない見当違いな場所に出てしまう可能性だってある。
 いったいいま自分はどこにいるのか、冷静にとらえなくては。

 五里霧中だったけれど、資料を少しずつ集めたりしているうちに「これなら行けそうだぞ」という気分になってきた。山道では進むべき方向を示してくれる道標はありがたい。地図もなしに歩いている場合ならなおさらだ。
 何かについて調べる時、ある程度資料が揃ってくると道しるべを見つけたような気分になる。少なくとも五里霧中からは脱け出しつつある、といった感じだけはつかんだ。もちろん、目指す頂上はまだ遠いけれども。

 そんな行き詰まりを感じている時、傍目にはぼうっとしているようにしか見えないことだろう。とはいえ、頭のなかには自分の抱えている問題が渦巻き続けてはいるのだが。
 そう書いた直後で矛盾しているようだけれども、ひとつの問題がすぐには解決できないからといって、そのことばかりを考えているわけではない。むしろ、積極的に他のことをする。これまた傍目には逃避にしか見えないかもしれないな、と思いながらも。

 なぜそうするのかうまく説明できない。本能的な行動と言っていいように思える。そうしないではいられない、というほかない。煮詰まってしまう前にそうした状態をかわそうとするわけだ。泥沼にはまっては取り返しがつかないから。
 別の用事をするために出かけたり、散歩したり。まったく違うジャンルの本や雑誌を読んだりすることもよくする。気晴らし効果だってもちろんある。

 また、いったん抱えている問題から離れ、距離を置いて眺めることによって何かが見えてくるという効果も期待できる。
 ふと思いついたので書いておこう。「名画と美女は遠くから見るのがいい」という言葉がある。これも上記のことと関係あるのかどうかはよく分らない。
 こんな風に雑然と脈絡のない事柄をあれこれと考えていくのがまた楽しい。

 「別のことを考えているときにひらめく」と、東谷暁さんは書いておられる。アスキー株式会社でパソコン雑誌を編集したり、『発言者』などの編集長を務めた後、いまはフリーで活躍する同氏が『困ったときの情報整理』(文春新書)で披露しているエピソードだ。
 SFショート・ショートという小説ジャンルを確立した星新一さんと対談をした折のこと。そのアイディアがどこから生まれるのか、という質問を東谷さんは投げかけた。

 百科事典を引いて調べている最中に、何かの拍子で目がまったく別の項目に移り、そこで偶然に目にした言葉からアイディアが生まれたことが何度もある。そういう話だった。(同書 p.132)

 また、東谷さんご自身の経験談も紹介されている。
 「取り組んでいるのが金融問題なのに、水泳の本を読んでいるときにアプローチの方法を思いついたりする」。
 こういう話を読むと興味深い。誰しも似たような体験をしているんだなぁ、と思えるからだ。

 抱えているテーマや問題から離れている時に何かを思いつく。インスピレーションがやって来る。このことを信じている。
 放置しているようでそうではない。むしろ、温めているのだ、インキュベーションと言い換えてもいい。元の意味は「孵化」。アイディアの萌芽を抱いたままの状態、ということになるだろうか。温めた卵からはいつかはヒナが生まれるものだ。

 先に引いた言葉に励まされる。まわり道をしながらの遅々とした歩みではあっても、それが無駄ではないと思わせてくれるからだ。
 そしていま、一条の光が見えてきた。
 先日、もうひとつの言葉が僕を勇気づけてくれた。

 「今日の引用」《Citation du jour》
(http://www.dicocitations.com/から申し込むことができる)というフランス発信のメールマガジンを取っている。
 タイトルのとおり、土・日曜祭日を問わず毎日ひとつずつの引用句が届く。ちょっと見ないで放っておくとすぐに溜まってしまうから気をつけなければならない。

 世界各国の作家、詩人、画家などの芸術家などの作品からフレデリック Frederic という担当者が選んで送ってくれる。アダモ、ジル・ヴィニョー、フェリックス・ルクレール、シャルル・アズナヴール、ルイ・シェディドなど、シャンソン歌手の作品からの引用も時々あって楽しい。

 10月2日に受け取った引用句はこうだった。

きみのチャンスを受け入れさせよ。幸福を抱きしめ、危険へと進め。

Impose ta chance, serre ton bonheur et va vers ton risque.

 詩人ルネ・シャール Rene Char(1907-1988) の言葉。シャールはシュルレアリスム詩運動の重要人物だった。また、ナチズムに対抗するレジスタンス闘士としても知られている。
 上記の言葉からも闘士としての気概が伝わってくるようだ。

 「危険」とはちょいと大袈裟に響くかもしれないけれど、何が起こるか分らないのも事実。失敗や予期せぬ事態だって「危険」のうちに数えることができそうだ。
 進むべき方向へのひと筋の光が見えてきたいま、僕は勝手にこう読み換えている。「チャンスと思ったらとにかく恐れずに進め」と。
 こうした言葉に勇気づけられて、さあ仕事に精を出さなくちゃ。