気になっていた映画を先週金曜日に観た。『アララトの聖母』(監督:アトム・エゴヤン)。敬愛するシャルル・アズナヴールが重要な役で出演している、と聞いていた。上映館は日比谷のスカラ座2。
アララトといえば、アルメニア共和国とトルコ共和国国境にある、標高5165メートルの山。アルメニア移民の両親を持つ彼が出ているのだから観たい、という気持ちが強かった。
四十日四十夜降り続いた雨による洪水の間あちこち漂流した果てにノアの箱舟がにたどり着いたのがアララト山頂だった、という記述が旧約聖書「創世記」8章4節に見える。
また、この山の名前を冠したブランデーもよく知られている。
映画が始まって間もなく、アズナヴールが登場する。エドワード・サロヤンというアルメニアの映画監督の役柄で、カナダのトロントにやって来る。アララト山麓で1915年に起きたトルコ人によるアルメニア人虐殺(注)を映画化するためだ。その構想の基となったのは、アメリカ人医師クラレンス・アッシャーの著作だった。映画では、ブルース・グリーンウッドがこのアッシャーに扮する俳優マーティン・ハートコート役を演じる。
サロヤンは脚本家のルーベン(エリック・ボゴシアン)とシナリオの構想を練るうちに、アーシル・ゴーキー(サイモン・アブカリアン)という画家に注目する。彼はその虐殺で母を失い、アメリカのボストンに移住して美術を学び、「芸術家と母親」を描いた。少年時代のアーシルを映画に登場させることをサロヤンは考えつき、ゴーキーの研究者であるアニ(アルシネ・カンジャン)に協力を依頼する。
アニは二度の結婚歴があった。最初の夫はアルメニアの自由を求める戦いのなかでトルコ大使の暗殺を企て、警官に射殺された。彼を英雄視している。その夫との間の息子が18歳のラフィ(デヴィッド・アルペイ)。彼は父親がテロリストか英雄か、と悩む。
二番目の夫との娘シリア(マリ=ジョゼ・クローズ)とラフィとは義兄妹の間柄でありながら恋人同士。彼女は父親の死はアニに責任があると思っており、ことあるごとに敵意をむき出しにする。
ラフィはサロヤンの撮影現場で雑用係として働く。アルメニア、ヴァンの地で繰り広げられた虐殺に関わったトルコ総督を演じるアリ(イライアス・コティーズ)の迫真の演技を見たラフィは憤りを覚える。
トルコ系のアリはそれまで虐殺の事実を知らずにいた。この映画に出演して感動したことを撮影後、率直にサロヤン監督に告げる。黙って聴くサロヤン。民族の悲しい歴史を肌で知っている老監督と、能天気なまでに無知な新人俳優との隔たりが浮き彫りになる。
監督はラフィにアリを自宅まで送って行くように命じる。「彼にシャンパンを1本買ってやれ」と紙幣を渡しながら。
アリを送り届けたラフィのなかに何かが目覚めていた。アルメニア人としての自己意識というべきものだろう。アリが俳優として敵役を演じただけであることは分っていても、彼を赦せない気分になっていた。アリは反論する。「自分はカナダで生まれ育った。きみもそうだろう」。そして「シャンパンを抜いて仲直りしよう」と提案する。が、ラフィはその申し出に背を向けた。アリの演技に満足した監督からのプレゼントのシャンパンだったのだが。
父が何のために生き、死んでいったかを知ろうとラフィはアララト山へと向かう。目にした物をビデオカメラに記録していく。
アフタマルで聖母子像を見つける。聖母マリアの傍らにたたずむ幼子イエスが岩に刻まれていた。ゴーキーの絵「芸術家と母親」のモティーフとそっくりだ。ラフィはそこに亡き父やゴーキーの心の原点を見出す。
貴重な発見を胸にカナダへ帰国するラフィ。が、持ち帰ったフィルム缶を空港の税関で開けることを拒否したため、検査官デヴィッド(クリストファー・プラマー)の取調べを受けることになる。デヴィッドには美術館に勤める息子フィリップ(ブレント・カーヴァー)がいるのだが、このところ父子の仲がうまく行っていない。フィリップには同性の恋人がいたからだ。その相手が役者のアリだった。
何かを隠していると直感した老練な検査官デヴィッドは、ラフィを問い詰める。ラフィの話は二転三転する。映画に挿入するための素材を撮影したものだと言い張った。が、デヴィッドの目の前でラフィが母のアニにかけた電話から真実が発覚してしまう。ラフィが手伝っていたサロヤン監督の映画はすでに完成しており、いままさに披露パーティーが開かれるところだったのだ。
もはや言い逃れはできない。
実はラフィはアララト山を案内してくれた地元民からフィルム缶を運ぶことを頼まれ、承諾したのだった。中身が何であるかを確かめもせずに。
遂にフィルム缶の蓋を開けることに同意するラフィ。「灯りを消してください」と懇願する。「なぜだ」とデヴィッド。「フィルムが台無しになるといけないので」。真っ暗闇のなかで老検査官は部屋の灯りを消す。缶が開けられる音。その後、どうやら中身は映画用フィルムではないのではないか。デヴィッドの反応を通して観客もそう感じる。ラフィは最後まで缶の中身がフィルムだと信じて疑わない。
いったい缶には何が入っていたのか。老検査官が疑ったとおりに粉末ヘロインか。それとも、ラフィの言うようにフィルムなのか。それは明らかにはされない。
次の場面では、解放されたラフィが取調室を出て行くところが映し出される。、外にはパーティー会場から迎えに駆けつけた母が息子を待っていた。
デヴィッドはその日が検査官としての最後の仕事だった。引退を前にしたラフィとのやり取りを通じて、彼のなかで何かが変わった。人の言い分を聞き、先入観や疑いを差し挟まずに信じること。
トルコはいまだに1915年のアルメニア人虐殺を公式に認めていないという。しかし、被害者のアルメニア人たちはその歴史的事実を忘れることはない。他国民の証言者もいる。トルコがどれほど黙殺しようとも、現実を消し去ることはできない。
勝利者の歴史には書き込まれることのない事実。しかし、それは民族の記憶として語り継がれてきた。これからもそうだろう。記憶しておくこと、忘れないことこそが、理不尽な死を強いられた犠牲者たちを追悼することになるはずだから。
この映画のなかで、カナダに生まれ育ったという設定のラフィのなかに芽生えていったのもその思いだったろう。
加害者たちの手によって闇に葬られてしまう歴史を信じることの大切さ。
ラフィもまた、フィルム缶を自分に預けたアルメニア人の言い分を取調室の暗闇のなかでも信じ抜いた。
信ずるに足るものは何かをはっきりと自分で見極めるのは容易なことではない。が、物事の真の姿を見失わないためには自分で確かめ、思いをめぐらすことをやめてはならない。そうしないと、ある勢力にとって都合のいい事柄しか見聞きできないような事態が起こらないとも限らないから。
20世紀のジェノサイド(虐殺)は、ナチス・ドイツによってユダヤ人に対して行なわれただけではない。
ロマ(ジプシー)の人たちへの残虐行為があったことを、トニー・ガトリフ監督映画『僕のスウィング』で知った。
そしてこの『アララトの聖母』で、アルメニア人虐殺を映像を通して受け取った。
この映画を観て、人間が時として愚かしいほど悪魔的になってしまうことの恐ろしさを改めて思い知らされた。
こうした暴挙が繰り返されないためにも、自分の心も見張り続けたいと考える。
注:この事実に関する記述が以下のサイトに収録されている。
「第一次大戦」
http://ww1.m78.com/index.html内「トルコ参戦」から次のページへ。
「アルメニア人の虐殺」
http://ww1.m78.com/topix-2/armenian%20genocide.html