♪「シャンソンを貴方に…」〜シャンソン情報TV番組オンエアのご案内〜
東京メトロポリタンテレビジョン(MXTV)・群馬テレビ(GTV)において毎回多彩なゲストをお迎えして見ごたえのある30分番組となっています。
[出演]芦野宏/小林力(p)他 [監修]大野修平
   
☆TOKYO MXTV⇒
10月2日(木) 21h00〜21h30 ゲスト:有光雅子
10月16日(木) 21h00〜21h30 再放送
11月6日(木) 21h00〜21h30 ゲスト:深緑夏代
11月20日(木) 21h00〜21h30 再放送
12月4日(木) 21h00〜21h30 2003年総集編
12月18日(木) 21h00〜21h30 再放送
  ☆群馬テレビ⇒
10月8日(水) 22h00〜22h30 ゲスト:有光雅子
10月15日(水) 22h00〜22h30 再放送
11月12日(水) 22h00〜22h30 ゲスト:深緑夏代
11月19日(水) 22h00〜22h30 再放送
12月10日(水) 22h00〜22h30 2003年総集編
12月17日(水) 22h00〜22h30 再放送
この「修平のひとりごと」は、2ヶ月ごとに削除いたしますので、必要な方はご自分で保存してください。(管理人)
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秘すれば花  10月31日(金)晴れ

 

 「秘すれば花」は世阿弥の言葉。能の奥義を伝える『風姿花伝』(『花伝書』)のなかに記されている。
 「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからずとなり」。
 秘密にしているからこそ花であって、公然と表に現わしてしまえば花ではなくなる、というわけ。
 諸芸においてこれは通用する、と世阿弥は説く。武道でも相手の予期していない手を使うこと勝つことができるとも述べている。
 シェイクスピアよりも前の時代に、世阿弥は芸の真髄を看破していたのだった。

 「秘すれば花」は、芸の秘密に限らず応用の利く考え方と言える。
 その昔、やんごとないお方が御簾の向こうに座して家臣たちに顔をはっきりとは見せなかった。普通の人とは違うよ、ということを強調するためだろう。
 鰻屋や焼鳥屋の秘伝のたれとか、ラーメン屋の秘伝のスープ、いわゆる企業秘密というものを思い出してみよう。評判の店の親爺が、TVの取材などで「ここから先は撮影お断り」なんていう場面を見かけることがある。これもまた隠すことによって、その店独自の味に神秘性を持たせることにつながっている。
 隠しているからこそ、すべて意味ありげに思えるのだ。

 実態を明らかにしないことが意味を持つのは、芸や料理の世界に限らない。ついこの間問題になったTV視聴率などもその例と言えるだろう。
 どのようにして調べているのかよく分らないからこそ、出てくる結果の中立性や公平性が保たれる。
 あの日本テレビのプロデューサーは、その秘密のヴェールを剥いでしまった。まさにパンドラの箱を開けるに等しい所業と言わざるを得ない。
 知りたいのはやまやまだけれども、それをぐっと我慢する。それもまた必要なことだってあるのだ。

 また、「知らぬが仏」ということもある。自分の寿命なんていうのも、知らないからこそいろんな事柄にチャレンジしたり、呑気に日々を送っていたりすることができようというもの。
 落語の「死神」みたいに、「ほれ、お前の命はこれだ」なんて、短くなって燃えているロウソクなんかを見せられたら、穏やかではいられないだろうなぁ。
 知らないこと、まだ見ぬことがあるからこそ、人生はなぞに満ちてミステリアスでもあり、楽しくもあるんじゃないだろうか。

 パリ、ペール・ラシェーズ墓地にはエディット・ピアフやイヴ・モンタン、ジルベール・ベコーといったシャンソン・フランセーズの歌手たちばかりでなく、他にも芸術家たちの墓がたくさんある。

 なかでも人目を惹くのは、第89区画にあるオスカー・ワイルド Oscar Wilde (1854〜1900)の墓碑だ。
 近寄って見ると、大きな墓石の上に空を飛んでいるような人物像が据えてある。神話や伝説にでも登場しそうなこの人物の背中にあるのは翼だろうか。不思議な雰囲気があたりの空気を圧している。
 「芸術のための芸術」を志す芸術至上主義の信奉者、オスカー・ワイルド。「私は人生に自分のすべての天才を注ぎ込んだが、作品には才能しか注ぎ込まなかった」。
 こんなカッコいい台詞を残して、彼はパリで客死した。

 ワイルドの短篇小説に「秘密のないスフィンクス」というのがある。
 カフェ・ド・ラ・ペのテラスでヴェルモットを飲んでいる「わたし」の前に、友人のジェラルド・マーチソン卿が姿を現わす。心配事のありそうな顔つきだ。「わたし」はきっと女のことで悩んでいるな、と見当をつける。ジェラルドはこう告げる。

「それがねえ、ぼくには女といふものが、どうも十分によく理解ができないのだよ」。

 それに対する「わたし」の答が、ワイルドならではだ。

「女といふものは君、愛されるためにあるもので、理解されるためにあるものぢゃないぜ」。
(平井程一訳「秘密のないスフィンクス」ワイルド選集第3巻 p.111〜112 1951年 改造社)

 実にエスプリの利いた言いまわし。ドリアン・グレイとヘンリー卿の会話を想い起こさせるものがある。
 ジェラルドはアロイ夫人という女性に心惹かれている。が、彼女にはどこか謎めいたところがあった。手紙を出すなら自宅にではなく、別の住所と宛名に、と言われたのだ。

 また、こんなこともあった。街で偶然に彼の前を歩くアロイ夫人の姿を見かけたので後をついて行く。その日の6時には、夫人宅を訪ねる約束があったのだが。と、彼女はまるで関係ない家に入ったではないか。ジェラルドは入口の階段の上に夫人が落としたハンカチを見つける。それをポケットに収め、夫人の家に行く。

 結婚を望むジェラルドは、先ほど目にした不可解な行動を問い詰めずにはいられなかった。
 「あなたは誰かに逢ひに行ったのだ。あれがあなたの秘密なんだ」。
 夫人は否定する。が、ジェラルドの疑念は晴れない。彼女が真実を語っていないと思い込む。怒った彼は夫人から届いた手紙を読まずに送り返した。そればかりか、別の友人とノルウェーへ旅行に出かけてしまう。

 帰って来たジェラルドは、新聞でアロイ夫人の死亡を知る。いつか夫人が入って行った家を訪れてみる。出てきた女性に「夫人は誰かと忍び逢いでもしていたのか」と尋ねると、意外な答が返ってくる。ここの客間で本を読んだり、お茶を飲んだりしていただけだったというのだ。

 何のためにそんなことをしたのか、ジェラルドには理解できない。そこで、友人である「わたし」の意見を求めることにしたのだった。
 「わたし」は夫人が秘密をマニアにしていた女だ、と答えてこう結論する。

「彼女はひじゃうに秘密が好きだったんだが、惜しいことに、彼女自身は秘密のないスフィンクスだったのさ」(同書 p.119)

 どことなく秘密めいているからこそ、スフィンクスも女性も一段と魅力的に見えると言えそうだ。
 もし隠すべき秘密がないとしたら、秘密を持ち合わせていないという事実そのものこそを隠したらどうだろう。

 「秘すれば花」もいいけれど、道路公団総裁を解雇された藤井さんみたいに、墓場まで持って行かなければならないような秘密には関わらない方がいいと思う。

   


   

手に馴染んだ道具  10月30日(木)晴れ

 

 先日、ノートパソコンが不調になった。なった、という言い方は正しくないな。原因は僕にあるのだから。
 5月に手に入れてから、もっぱらこちらで仕事をしている。キーボードのタッチが、それまで使っていたデスクトップのよりもソフトなので文字入力が楽にできる。キーを叩く時の音もうるさくない。

 10月第1週のある夜、ワインを飲みながら、いい気になって書いていた。グラスをノートパソコンの左上に置いて。ちょっとしたはずみでそのグラスに手がかかり、中身をひっくり返してしまった。
 恐るべき光景が広がった。ワインがキーボードの上にかかったのだ。

 慌ててティッシュで拭く。キーボードを叩いてみる。ディスプレイにはでたらめな文字が現われた。何度やっても同じ。そ、そんな…。
 愕然とした。コーヒーや清涼飲料水をこぼした、といった話は聞いたことがある。僕がこぼしたのはワインだから、饒舌になって働いてくれるんじゃないか、なんてアホなことを思ったけれど駄目。

 メーカーのサポートセンターに電話して、修理に出すことにした。聞けば「1週間から10日でお手元に戻します」とのこと。
 購入して1年未満だから、保証書があれば無償なのだけれど、そいつが見当たらない。どこを探しても、影も形もない。でも、ぐずぐずしているわけにはいかないから有償で直して貰うことにした。
 自分で梱包する必要もなく、宅配便の人が取りに来て、修理が済んだらまた届けてくれる、というのがせめてもの慰め。
 10月10日に引き取りに来て貰い、たしかに16日には元通りになって帰って来た。ほっとひと息。

 万が一に備えて、自分で作ったデータなどのファイルは、CD−ROMにバックアップを取ってある。これを頼りにデスクトップに仕事を引き継いで事なきを得た。こうしてこの「ひとりごと」も、何事もなかったかのように書き続けることができた。「備えあれば憂いなし」を実感している。

 道具というものは手の延長だという。なるほどそのとおりだと思う。
 石器からコンピュータにいたるまで、人間は自らの両手だけではできないことを、道具の力を借りて成し遂げてきた。道具は手ばかりか、脳の働きの延長でもあるのかもしれない。

 神田神保町にある「文房堂」をご存知だろうか。「ぷんぽうどう」と読む。「ぶんぼうどう」ではない。「房」の字をマルのついた「ポウ」と発音する。すずらん通り、三省堂書店の裏に面した老舗の画材店だ。
 古本漁りのついでに立ち寄って、カランダッシュ社のペンシルホルダーを買ったことがある。ステンレス製の軸を黒く塗ってあり、目盛りがついているのが気に入った。しばらく使っていたけれど、失くしてしまった。いまは、ロットリング社のものを愛用している。

 古来、中国の文人たちは「文房四宝」を大切にしてきた。彼らが文具に興味を持つようになったのは漢代にまで遡ると言われる。唐代には良質な硯が作られるようになり、宋代に至って「文房四宝」が尊重されるようになった、とものの本にある。
 「文房四宝」とは硯、墨、筆、紙の四種。書斎(文房)で使う文具のなかで最も重要な物というわけだ。なるほど、これらの物がなければたしかに文字を書くことは叶わない。まぁ、基本の「き」というところ。

 ふと振り返ってみると、このなかの硯、墨、筆にお目にかからなくなって久しい。筆で字を書く難しさと楽しさを忘れかけようとしている。
 先に述べたように、いま僕が文章を綴るのにはパソコンに頼らざるを得ない。便利であることは明らかだけれど、僕のように不注意だとたちまち言うことを聞いてくれなくなるから気をつけなくちゃね。

 ところで、パソコン時代における「文房四宝」って何だろう。
 『書くためのパソコン』(中野明 PHP新書 2000年)に興味深いヒントがある。中野氏は書いておられる。
 「電子の机―パソコンに向き合う前に」(第1章)、「電子の万年筆―キーボードとのつき合い方」(第2章)、「電子万年筆の頭脳―目指すは快適な日本語入力」(第3章)、「電子原稿用紙の使い方―どんなソフトに書けばよいか」(第6章)。

 これを半ば強引に「文房四宝」に相当するものと考えてみることにしよう。
 電子の机としてのパソコンそのもの。電子の万年筆=キーボード。その頭脳である日本語入力ソフトを「墨」にもたとえようか。電子原稿用紙=ワープロソフトやエディタ。

 以前にも書いたことがある。物書きのはしくれとして、書くための道具には思い入れがある、と。
 手に取っただけで思いの丈をすらすらと書ける万年筆を夢に見た。「ひょっこりひょうたん島」のドンガバチョ大統領みたいに言えば「サラチョ、サラチョと書けますなぁ」(ここはひとつ、ガバチョの声をやっていた故藤村有弘さん風に)てな奴を。
 また、原稿用紙は神楽坂の文房具店・相馬屋製の200字詰め、罫線がセピアのもの、といった具合。

 手書きからパソコンに移行したいまも、手に馴染む感覚を楽しみたいと思っている。そこで、ワープロソフトよりもテキストエディタを愛用している。使いこなせない機能がやたらと多くついているワープロソフトよりも操作が軽やかだから。

 なかでも手放せないのがTeraPad(作者:寺尾進氏)というエディタ。常に改良を重ね、ヴァージョンアップを続けている「進化するエディタ」だ。最も新しいのは昨日発表された"ver.0.84"。

 この「ひとりごと」も仕事の原稿もすべてTeraPadで書いている。使い勝手がいいのだ。必要がある場合はWordで編集すればいい。
 機能の使いやすさもさることながら、でるふぃさんが担当する「ヘルプ」がまた面白い。「めざせ、読んで楽しいヘルプ」というだけあって、退屈になりがちなこの項目を活気づけているのだ。

 ところが、この最新版がリリースされるまでにちょっと心配なことがあった。
 直前のヴァージョン "ver.0.83"が、Biglobeに置かれた寺尾さんのサイトで発表されたと思ったら、その後忽然とそのサイト自体が姿を消してしまったのだ。
 何の前ぶれもなしに。どんなにURLをクリックしても、表示されるのはBiglobeのトップページばかり。

 いったいどうしちゃったんだぁ〜、と情けない気持ちになった。それでも更新チェックだけは毎日続けた。しかし、何の変化もないまま数週間が過ぎた。

 昨日、ヴァージョンアップ情報を窓の杜の記事のなかに見つけた。見るとサイトのURLが変わっている。
 TeraPad http://www5f.biglobe.ne.jp/~t-susumu/library/tpad.html
 あれ、どうしたんだろう、と思いながらアクセスして、さっそく最新版をダウンロード。それを使っていまこの文章を書いている。

 BBSに寺尾さんがこれまでのいきさつを説明しておられるのを読んだ。冒頭に「このメッセージの他掲示板等への無断引用はしないで頂くようお願いいたします」と作者自身の要望があるので、詳しく書くことはできない。

 複雑な事情があったようだ。それでも再開してくれたことはとても嬉しい。TeraPadを愛用している人は多いのだから、寺尾さんにはこれからもお元気で開発を続けていただきたいと心から願っている。
 僕の大切な「文房四宝」の一部であり、手に馴染んだ道具なのだから。

   


   

パリ、10月の思い出   10月29日(水)晴れ

 

 『舞踏会の手帖』のことを昨日書いた。主演女優マリー・ベルの名前に見覚えがあるな、と感じながら、それが何と関係があったものか思い出せずにいた。映画ではない、他の話題だった。記憶の手帖のページをパラパラとめくってみたけれど、何も見つからない。

 こういう時は無理に探そうとしない方がいい。あえて答を保留したまま、いったんそっとその名前から離れる。そうするとある日、ふと思い出すことがある。それを待つこと。
 セレンディピティ serendipity に期待を寄せるのだ。忘れていた記憶が思いがけない場所、思いがけない時に蘇ってくる場合もあるから。
 思い出せなかったら、その話題とは縁がなかったと諦める。仕方ない。

 あの美人女優の名前からそっと離れはするのだけれど、まったく頭のなかから追い出してしまうのではない。手の届きそうな所に置いておく。
 時々、顔を動かさずにチラリと目をやる。あまり荒々しく振り向くと、名前と一緒にそれは逃げて行ってしまうだろう。そうなのだ、おぼろげな記憶というのはまるで警戒心の強い猫みたいだから。

 やがて、思い出の方から僕のもとへやって来た。
 マリー・ベルの名を冠した劇場、テアトル・デュ・ジムナーズ マリー・ベル Theatre du Gymnase Marie Bell(38, boulevard de Bonne-Nouvelle 75010 Paris)。
 そうだ。オペラ座の前を走るイタリア大通りを東へ向かい、オスマン大通りと合流するあたりを直進するとポワソニエール大通りに出る。やがて見えてくる地下鉄のボンヌ・ヌーヴェル駅のすぐそばに、その劇場は建つ。
 女優マリー・ベル(1900〜85)は、1962年から亡くなる年までこの劇場の支配人を務めたのだった。



        テアトル・デュ・ジムナーズ マリー・ベル正面

 思い出した。1997年、10月にここでエディット・ピアフの生涯を描いたミュージカルが上演されたのだ。
 運が良かったとしかいいようがない。その時期にパリにいたのだから。
 当時、朝日新聞日曜版で「20世紀の100人」という企画があった。記者たちがそれぞれにアイディアを出し、20世紀に政治・文化・芸能など諸分野において忘れられない活躍をした人物を選んで取材して記事にする、というもの。ピアフのほかユーリ・ガガーリン、アルバート・アインシュタイン、湯川秀樹、ロバート・キャパ、マザー・テレサといった人たちが紙面を飾った。連載後、単行本として同社から発売されている。

 Mさんという記者が目をつけたのがエディット・ピアフだった。加藤登紀子さんのお姉さんから電話があり、「Mさんの手助けをしてほしい」と言われた。二つ返事で相談に乗る。取材対象を決め、僕がその人たちのアポイントメントを取ることになった。
 10月10日、朝日新聞パリ支局近くにあるホテルのロビーで会う約束を交わし、Mさんはひと足先に旅立った。レーニンの取材をするため、ロシアに飛んだのだった。

 行ってみると、そのホテルはオペラ・コミック座にほど近い所にあった。支局が入った建物のあるイタリア大通りもすぐそこだ。
 僕はクロワ・デ・プティ・シャン通りにあるホテルに泊まっていた。フランス銀行の真ん前だ。毎朝、Mさんとカメラマンが泊まっているホテルまで歩いて行くのが日課になった。国立図書館の脇、ヴィヴィエンヌ通りを北へ、株式取引所の前を通り過ぎ、サン・マルク通りを左折すればもうすぐだ。

 エディット・ピアフを題材にしたミュージカルがあることを教えてくれたのはロラン・リベ Rpland Ribet さん。1974年まで、シャルル・アズナヴールやジュリエット・グレコ、ナナ・ムスクーリなどのアーティストをジャン=ルイ・マルケ Jean-Louis Marquet さんとともにマネジメントしていた方だ。


      《Piaf Je t'aime》公演プログラム

 ミュージカルのタイトルは『ピアフ ジュ・テーム』《Piaf Je t'aime》。リベさんが原案を、マルケさんが脚本を担当されたものだ。この作品は評判がいいようで、10月21日から追加公演が決まっていた。
 「ナタリー・レルミット Nathalie Lhermitte がピアフを演じてましてね、歌もパワーがあっていいですよ」とりべさんは力説した。ちょうどその時はリハーサルをしている最中だという。残念だけれど、僕は再演が始まるまでパリに留まるわけにはいかなかったので、リハーサルを見物させて貰うことにした。

 公演会場がテアトル・デュ・ジムナーズ マリー・ベル。朝日新聞パリ市局から歩いても行ける。
 内部は典型的なイタリア式劇場。平土間だけでなく、ステージを囲むような形で3階まで客席が設置されている。いわゆる“天井桟敷”まで備えた造りだ。

 Mさんとリハーサルを見に出かけた。見たような男が客席からステージに目を凝らしている。ひげ面で、後頭部の髪の一部を編んで腰のあたりまで伸ばしたユニークなヘアスタイル。「あれっ、トニオじゃないか」。
 休憩時間にそばに寄って行き、挨拶する。相好を崩しながら手を握ってきた男は、まぎれもなく照明係のトニオだ。大がかりなコンサートなどの照明を手がけるジャック・ルヴェイロリスの弟子。1992年、シルヴィ・ヴァルタン日本公演の折に彼も一緒に来ていて、あれこれ厳しい注文を出すのを通訳した覚えがある。
 こういう再会は実に楽しい。

 第1部、第2部と通してリハーサルを見た。なるほど、エディット・ピアフを演じるナタリー・レルミットはよく声が出ている。台詞まわしも歯切れがいい。ピアフの妹分であるシモーヌ(愛称モモーヌ)役のリジアーヌ・メス Lisiane Meis との息も合っているようだった。ジャン・コクトーを演じる白髪頭のジャン=モーリス・ヴェーヌ Jean-Maurice Vayne が本人にそっくりなので驚いた。

 全体にまとまりがよく、エディット・ピアフの人となりと生活ぶりが手際よくまとめられたミュージカルだった。脚本を書いたマルケさんが、本物のシモーヌの夫だということもあって、エディットとの関係が細やかに描写されていた。
 あのまま日本に持って来て公演できればいいのになぁ、と思った。

 ピアフが応援したコーラス・グループ、レ・コンパニオン・ド・ラ・シャンソン Les Compagnons de la Chanson のトップ・テナー、フレッド・メラ Fred Mella までが出演しているのも興味深かった。エディットと彼らは「谷間に三つの鐘が鳴る」で一緒に歌った。このグループのヒット曲といえば「幸福を売る男」《Le marchand de bonheur》。日本では芦野宏さんのレパートリーとして親しまれた。いまではサントリーモルツビールのコマーシャルソングとしてTVから流れている、あの曲だ。

 10月9日のピアフの命日には、ペール・ラシェーズ墓地で行なわれたミサにもMさんともども参列できた。友人のエリックもいろいろと手助けをしてくれて、アズナヴールにも会え、ピアフにどっぷり漬かって過ごした毎日だった。

 彼女の没後40周年に当たるいま、Mさんのお供をしたあの取材の日々を楽しく思い返している。

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♪Petites annonces♪
フランスではピアフのCDが賑やかに発売されている。《Michele Torr chante Piaf》(Productions speciales)、《Mireille Mathieu chante Piaf》(EMI/Capitol)、Charles Dumont《De Piaf a Dumont》(XIII bis Records)etc.

ステージでは、10月26日までテアトル・デュ・ルナールで《Edith, la fille du pere Gassion》「エディット、ガシオン親父の娘」という芝居が上演された。
 あのセリーヌ・ディオンの妹のクローデット・ディオンが、11月16日からオランピア劇場でピアフ・ナンバーを歌う。《Claudette Dion chante Piaf a l'Olympia》。
 また、1960年代から活躍を続けるミシェール・トールもベルギー、リエージュでピアフを歌う公演を行なう。これは2004年4月に予定されている。

   


   

「すべては過ぎ、萎え、砕ける」  10月28日(火)雨

 

 日本テレビのプロデューサーが視聴率をお金で買い取っていた、という不祥事が明るみに出た。
 あってはならないことだ。何と愚かな、と思う。そのプロデューサーは自分の手がけた番組を見て貰おうと、視聴率調査のモニターを務める四家庭に現金や商品券を配った。その全員が見たところで、結果として上昇する数字は0.67%だという。僅かな数字でさえほしかったということなのだろうか。

 何でも数や量で計られる世のなかだ。100よりも1000、1000よりも10000、10000よりも100000…。数多く売れた方が勝ち、とされる。資本主義である以上はやむを得ないことではある。商品は売れないよりは売れた方がいいに決まっているのだから。
 問題はその質だろう。本来、売れる物は優れた質を備えているはずだ。
 ところがTVの場合、人気のある番組が必ずしもクオリティが高いとは言えないんじゃないだろうか。視聴率さえ稼ぐことができればいい、という考えがまかり通って質は二の次、似たり寄ったりの企画が多いように思える。

 まぁ、嫌なら見なければいいだけの話。選択の自由は視聴者の手のなかにあるのだから。TVのスウィッチは点けるためだけでなく、消すためにもついていることを思い出そう。

 久しぶりに懐かしい映画を昨夜、TVで観た。チャンネルは問題の日本テレビ。午前2時過ぎからの「月曜映画」で、『舞踏会の手帖』をオンエアした。
 フランス文学科に入学したての頃、担任の林田遼右先生がおっしゃった。「フランス語を勉強するための動機づけとして、シャンソンを聴いたり、映画を観たりするといいでしょう」。
 生意気だった当時の僕にしては珍しく、その言葉を素直に受け止めた。その結果、シャンソン・フランセーズを一生の仕事に選ぶことになった。お勧めに従ってよかったと思っている。

 いまのように個性的な上映館がなかった時代のこと。林田先生が教えてくださったのは、国立近代フィルムセンターで上映されるフランス映画だった。ブリジストン美術館にほど近い同センターで、熱心な映画ファンに混じって往年の名作映画を何本か観たものだ。

 『舞踏会の手帖』《
Un carnet de bal》もそうして観た映画の1本。モノクロの画面に浮かび上がる、主役のクリスティーヌを演じるマリー・ベルの肌の白さが目を射た。
 1937年に公開されたこの映画、監督はジュリアン・デュヴィヴィエ。『巴里の空の下セーヌは流れる』と同じように、複数の人物の暮らしぶりを交差させたオムニバス手法が用いられている。
 フランソワーズ・ロゼー、ルイ・ジューヴェ、レーミュ、ピエール・ブランシャール、フェルナンデルといった名優たちの演技も見どころだ。

 映画の冒頭。イタリア、コモ湖畔の古城には晩秋の霧が立ちこめている。その城に住む、美しい若妻クリスティーヌは年かさの夫を喪ったばかり。あまりに年齢が違ったせいか、夫には愛を感じないままに結婚生活が続いたようだ。
 形見の品を召使たちに分け与え、不要な物を炉に投げ入れる。と、1冊の手帖が床に落ちる。舞踏会の手帖だ。

 19世紀のフランスには舞踏会に関する淳風美俗があった。それはこの映画の作られる頃までは続いていた。上流階級の人々の間ではいまも受け継がれているのかもしれないけれど、僕には縁のない世界なので確かめようもない。

 舞踏会の前に音楽のプログラムが決められる。また、事前に誰をダンスの相手として招くかを相談し合ったという。そのようにして決まった相手の名前を記しておいたのが、舞踏会の手帖というわけだ。
 カヴァリエと呼ばれた男性は、舞踏会の最中に同じ女性パートナーばかりを誘うのは無作法とされていたのだそうだ。

 クリスティーヌは忘れていたその手帖を取り上げ、ページをめくる。懐かしい男たちの名前が並んでいる。ジェラール、ジョルジュ、ピエール、アラン、エリック、フランソワ、ティエリ、ファビアン…。
 クリスティーヌに愛を告白する者もいた。叶えられぬ愛に自殺を試みた者もいる。ダンスの伴奏に流れたワルツの響きとともに、いまも鮮やかに思い出される、若くて魅力的な男たち。
 あれから20年の歳月が過ぎ去っていた。
 彼らはいまどうしているだろう。その素敵なカヴァリエたちを訪ねる旅に出ることをクリスティーヌは決意する。過去を見つめ直すことで、夫のいないこれからの人生のための鍵を得ようとしたのかもしれない。

 が、探し当てた男たちは、かつて彼女を魅了した姿とはまったくと言っていいほど異なっていた。遂に最後まで画面に姿を現わさないジェラールを除いては。
 クリスティーヌに受け入れて貰えなかったことが、彼らの人生に何らかの影響を及ぼしていたのだった。

 20年の時を経ていながらも、変わらずに美しいクリスティーヌ。城で召使たちにかしずかれ、何ひとつ不自由なく、浮世の苦労とかけ離れた暮らしをしていたからだろう。
 それに引き換え、再会する男たちはパッとしない。どこか不幸の影を負っている。クリスティーヌの美貌とは対照的だ。それがとてつもなく、哀しい。

 美しさが衰えないのは女性にとっては素晴らしいことだろう。しかし、まわりはすべてが変わり、移ろっているなかでひとり変わらずにいることが果たして幸せと言えるのだろうか。在原業平が詠んだ歌が想い起こされる。

月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

 時の流れというものは残酷だ。人の相貌や生活のみならず、心や思いまで変えてしまう。

 クリスティーヌは失意のうちにコモ湖畔の城に戻る。会わなければよかった、見なければよかったという思いが胸に湧いていたことだろう。
 彼女の旅は、フランスに伝わるこの諺を確かめることになってしまったようだ。

 「すべては過ぎ、萎え、砕ける」"Tout passe, tout lasse, tout casse." (トゥ パッス、トゥ ラッス、トゥ カッス)。

 それぞれの語尾にある"-sse"(〜ス)という音が、流れたり滑ったりしながら物事が移ろってゆくような印象を与える。

 ルイ・ジューヴェとのやり取りが強く印象に残っているのは、フランス文学科にいたせいだろうか。
 ジューヴェ演じるピエールはいまやキャバレの経営者で、ジョーと呼ばれている。実は裏では夜盗団を動かすボスだった。クリスティーヌは彼の店を訪れ、注文を取りに来た老ギャルソンにピエールへの言づけを頼む。

古い凍りついた廃園を
二つの影が通り過ぎて行ったばかり

Dans le vieux parc solitaire et glace,
Deux formes ont tout a l'heure passe,

 ポール・ヴェルレーヌの詩「感傷的対話」《Colloque sentimentale》の冒頭だ。この詩はすべて二行で書かれたディスティーク(distique :二行詩)になっている。廃園に来た男女の影が、愛し合って過ごした昔の日々を語リ合う、という設定。

 このフレーズをギャルソンから聞いたジョーは、クリスティーヌの席にやって来る。何かを思い出したのだ。話すうちに、彼のなかに昔日のロマンティックな少年ピエールが蘇ってくる。この二人の間に交わされる会話がまさに「感傷的対話」。
 若かったある日、クリスティーヌとピエールは川に沿って歩いて行った。橋の近くで寝そべっているうちに、夕闇が迫ってくる。クリスティーヌの首筋にキスしたピエール。

― 私は目を閉じて見ないふりをしていたわ。
― 二人、どうかしてたな。素敵だった。

- Je fermais les yeux pour avoir l'air de ne pas vous voir.
- On etait idiots. C'etait charmant.

 しかし、「昔をいまに返すよしもがな」。ジョーとなったピエールはクリスティーヌの目の前で警察に逮捕され、連れて行かれる。

 ヴェルレーヌの詩と、映画の登場人物の会話を重ね合わせたシ−ンだ。デュヴィヴィエ監督が持っているポエジーが強く印象づけられる。

 過去に遡ってみたい、できればやり直してみたい、という思いを抱くことがあるかもしれない。でも、それは不可能だ。もし可能だったとしても、やめておいた方がよさそうだ。惨めな思いをしないで済むだろうから。

 手元に舞踏会の手帖が残っているのなら、そのページを繰るだけにしておいた方が無難のようだ。

   


   

ブレルの未発表曲を聴く  10月27日(月) 曇り

 

 シャンソン・フランセーズの偉大な歌手二人が、10月にこの世を去っている。
 エディット・ピアフ Edith Piaf が1963年10月11日、ジャック・ブレルJacques Brel は1978年10月9日が命日だ。それぞれ今年が没後40周年、25周年に当たる。
 ピアフ、ブレルともに、凝ったデザインのコンピレーション・アルバムが発売されている。

 「アコーディオン弾き」《L'accordeoniste》というヒット曲を持つピアフ、まさにアコーディオンの形をしたボックスセット《Accordeon》が出た。8000セット限定、全413曲収録で、そのうちの6曲が未発表のものだそうだ。あっと言う間に売り切れてしまうんだろうな。
 ピアフではこの他に43曲入り2枚組の《Eternelle》『エテルネル』(永遠の女性、といった意味)もある。

 可愛らしいボンボンの缶にCDが詰まっているのが、ブレルのコンピレーション盤。(10月2日付当欄「ブリュッセル便りをいただいた」で、東京ヴァリエテ倶楽部のうさ公さんがブリュッセルのCDショップで撮られた写真を掲載)
 なぜボンボンの缶? 彼のシャンソン「ボンボン」《Les bonbons》の歌詞が下敷きになっているのが、ブレルを知る者なら察しがつくはず。

あなたにボンボンを持ってきました
花ははかないものだから
それにボンボンって とてもおいしいから

Je vous ai apporte les bonbons
Parce que la fleur c'est perissable
Puis les bonbons c'eat tellement bon

 もちろん、ブレルのシャンソンも枯れたり、腐ったりしはしない。
 アコーディオンやボンボン缶にCDを納めるなんていう遊び心、実に楽しい。いずれも、日本のレコード会社では出してくれそうにないのが残念でならない。シャンソン・フランセーズをめぐる彼我の事情の違いを痛いほど思い知らされるのは、こういう時だ。

 遺作となるアルバム《Brel》(邦題『偉大なる魂の復活』)をブレルがレコーディングしたのは1977年9月のことだった。ステージからの引退を決め、オランピア劇場でさよなら公演をしてから11年の月日が過ぎていた。「もう言うべきことは何もない」というのが身を退く理由だった。

 しかし、彼にはまだ言うべき事柄があった。
 ジェラール・ジュアネスト Gerard Jouannest、フランソワ・ローベ Francois Rauber といった昔の仲間がスタジオに集まった。
 肺の具合が芳しくないので、1日に2、3曲くらいずつしかレコーディングを進めることができなかったという。そうやって全12曲を収録したアルバムが完成した。

 ジャック・ブレルは肺血栓で亡くなった。最後を看取ったのは、故国ベルギーからマルキーズ(マルケサス)諸島へ移り住んだ時に連れ添っていたマドリー、マネージャーの二人。
 が、その他にも数人の病院関係者がいた。彼が入院していたラエネク病院の女性看護士、カトリーヌ・アドニスもそのひとりだ。その著書『看護婦のまなざし』《Le regard de'une infirmiere》(ed.Plon 1987)には、療養中や臨終の様子が記されている。スターを追い駆ける芸能ジャーナリズムとはまた違った、冷静かつ細やかな気遣いのこもった書き方に終始している。

 マドリーに付き添われてブレルがカトリーヌ・アドニスの前に姿を現わすのは、その1年後の7月。病状は時に快方に向かうこともあったようだ。
 アドニスは回想録のなかで述べている。ブレルは決して自分の境遇を嘆いたり、責めたりすることはなかった、と。自分自身が病気を惹き起こしたことを問題にしていたのだった。彼女はブレルの告白を何度か聞いていた。「僕はまったく愚かでした。仕事のある夜には50本以上もタバコを吸ったこともあるんです」。
 過度の喫煙が彼の命を縮めたらしい。

 運命の時がやって来る。
 10月9日午前3時30分、注射の時間。ブレルは尋ねた。「なぜ僕のためにそうしたすべてのことをしてくださるんですか、アドニスさん」。彼はもうすぐ命が尽きることを察知していたのだろうか。
 病室から出て自分の事務室に戻る。と、リュシアン・イスラエル医師が付き添いの看護婦と一緒にブレルの病室に入って行った。看護婦がアドニスのもとに来て、臨終を告げた。

 最後にアドニスはこう書いている。

 1978年10月9日月曜日、午前4時。
 私の事務室から、マネージャーが電話でラジオ局各社にニュースを知らせているのが見える。午前中いっぱい、各局が彼のシャンソンを流すだろう。それらを聴くのは私たちにはあまりに辛過ぎる。

 Lundi 9 octobre 1978,4 heure du matin.
 Deouis mon bureau, son impresario telephone aux stations radio pour leur annoncer la nouvelle. Tote la matinee, ses chansons passeront sur l'ensemble des chaines. Nous avons trop de peine pour les ecouter.(ibid. p.125)

 ブレル逝去の知らせは、こうして僕たちにもたらされたのだった。

 実は、先に挙げたアルバムに収録されなかったシャンソンが5曲あった。気に入らなかったらしく、ブレル本人が外したと伝えられている。
 もっとも、そのタイトルと歌詞だけは、1982年に刊行された《Jacques Brel OEuvres integrale》(ed.Robert Laffont)『ジャック・ブレル全作品集』に掲載されている。僕も読んだことはある。

 しかし、どんな曲なのかはまったく分らなかった。それが彼の没後25周年に当たる今年、ようやく陽の目を見ることになった。
 ユニヴァーサル・フランスのファブリス・デュバール Fabrice Dubard さんが、ご親切にもその5曲が入った2枚組《BREL infiniement》(Barclay/Universal 980 839-6)を送ってくださったので、さっそく聴いた。


 《BREL infiniment》(Barclay/Universal 980 839-6)
  未発表曲を含む2枚組 全40曲を収録

 CD1の冒頭「見果てぬ夢」の次から、未発表曲が続く。心憎い並べ方だ。誰しも早く聴きたいと思う曲を前に置いてある。

 まず初めは《La cathedrale》「大聖堂」。その建物を大きな船に見立て、イギリスの上にロープを繰り出せ、というスケールの大きい歌になっている。アコーディオンの音がゆったりと大海原を船が進むような雰囲気を醸し出す。カモメの鳴き声も効果音として添えられている。

 次は《L'amour est mort》「愛は死んだ」。ピアノの音が先行し、やがてストリングスや管楽器が加わってゆく。愛が冷めてしまった二人。部屋に置かれたピアノは家具となり果てている。「彼女は自分が歌っていたことを忘れ、彼は彼女が歌っていたことを忘れた」。愛と熱狂に満ちた日々は遠く、感動のない時間がただ過ぎ行く。

 《Mai 40》「40年5月」は悲しい日付だ。この年の5月10日、ドイツ軍がベルギーに侵攻したのだ。第二次世界大戦はもう目の前に迫っていた。
 ジャズのビッグバンドみたいな陽気な曲調。しかし、11歳の彼は浮かれてはいない。その時に意識したのは、自分のなかの「ベルギー人らしさ」"bergitude だった。
 そして、それぞれのクゥプレの最終行に歌われる女たちの描写が冴える。最初のクゥプレでは「男たちにしがみつく」。次は「子供たちにしがみつく」。続いて「自分たちの流す涙にしがみつく」。最後は「沈黙にしがみつく」。女たちはこうして状況の激変にも耐えてきたのだ。

 《Avec elegance》「エレガンスを持って」。失望を感じていながらも、生きる意志を捨てることのない男たちの姿が描かれる。「彼らはいつも恐れていることを知っている、臆病の重さを知っている。エレガンスを持って絶望している」。
 エレガンスとは、人間としての誇りを表わしているのだろうか。

 《Sans exigence》「要求もなしに」では、低く響くオルガンの音色に誘い出されるようにブレルは歌い出す。ためらっているかのようにハープシコードの音が絡んでくる。
 この歌の主人公は、女の冷たい仕打ちを前にしてあまりに控えめ過ぎること、受け身でいること、洞察力のなさを嘆いている。

 5曲を繰り返し聴いてみて、なぜブレルがこれらのシャンソンをしまい込んでしまったのか、その理由がよく分らない、というのが素直な印象だ、些細な点をもおろそかにしないのがブレル流だから、ご本人には納得のいかないことがあったのだろう。

 生きることをおろそかにしないブレルの姿勢が、これらのシャンソンでも貫かれていることを改めて知った。
 自分を偽らずに生きること。それは口で言うほど簡単ではない。でもたまに、そうやって生きたブレルのシャンソンに我とわが身を照らしてみるのもいい。贅肉のついた生き方を反省するよすがとなりそうだ。

   

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〈曲目〉

CD 1
1.La quete/2.La cathedrale/3.L'amour est mort/4.Mai 40/5.Avec elegance/
6.Sans exigence/7.Les Marquises/8.Orly/9.La ville s'endormait/10.Jojo/11.J'arrive/12.Quand on n'a que l'amour/13. Le plat pays/14.Mon enfance/15.Les vieux/16.La chanson de Jacky/17.La valse a mille temps/18.Le prochain amour/19.La chanson des vieux amants/20.Ne me quitte pas

CD 2
1.Amsterdam/2.L bierre/3.Bruxelles/4.Le diable"Ca va"/5.Il nous faut regarader/6.L'enfance/7.Ces gens-la/8.Les bonbons/9.Les flamandes/10.Les bourgeois/11.Jef/12.Mathilde/13.Marieke/14.Madeleine/15.Les bigotes/16.Vesoul/17.Le moribond/18.Au suivant/19.Le dernier repas/20.Je suis un soir d'ete