赤坂にある草月ホールを久しぶりに訪れた。
ホールができてしばらくの間、シャンソン関係のコンサートやリサイタルがよく開かれたものだった。
1980年、「パリのお嬢さん」のヒットで知られるジャクリーヌ・フランソワがここでリサイタルを行なった。この気難しい女性歌手の通訳を務めるのはずいぶんと骨が折れたっけ。二十代後半の僕にとっては、いい修行にはなったけれど。
400名ちょっと収容の、瀟洒な造りの会場の魅力はいまも失せていない。
コラ・ヴォケール、アンナ・プリュクナルの歌声もここで聴いた。いずれも1980年代のこと。コラが醸し出すヴェテランの味わい、アンナの命をかけた力強い主張。アーティストたちの発するオーラが客席を満たしたのを昨日のことのように思い出す。
昨夜も印象深い催しがあった。
「バルバラ没七年メモリーコンサート」。"Commemoration du 7eme anniversaire de la mort de Barbara"。日本流に言えば「7周忌」に当たるコンサートだ。
バルバラのシャンソンをこよなく愛し、作品を日本語に訳して歌っている千葉美月さんの企画・構成・演出によるもの。このコンサートで歌われた訳詞もそうだ。
千葉さんは赤坂で「ミュージックサロン バルバラ」を経営している。そこで歌っている歌手たちが、昨夜のステージで歌った。
どの歌手からも並々ならぬ意気込みが感じられた。限られた持ち時間を目いっぱい使い、全身でバルバラへの思いを表現しようとしているようだ。これまで日本ではあまり取り上げられることのなかった曲が選ばれている点にもそうした意欲がうかがえる。素晴らしいことだ。
パリに本部のある非営利団体・バルバラ友の会 Les Amis de Barbara (http://lesamisdebarbara.free.fr/)の名誉会員でもある千葉美月さんが、思いの丈をこめて歌う「バルバラ鎮魂歌」から、第1部が始まる。演奏は山下淳トリオ。(以下、歌手の敬称を略して書く。)
続けて、あみが歌う「あなたに捧げるカンタータ」《Une petite cantate》、「ゲッティンゲン」《Goettingen》。
杉村美恵は「脱帽」《Chapeau bas》と「ムッシュ・カポネ」《Monsieur Capone》を披露。
山森義之・福島順子は「ブリュネットのレディ」《La dame brune》で、バルバラとジョルジュ・ムスタキのデュエットを再現した。終わって山森がステージに残り、歌ったのは「私の仲間たち」《Mes hommes》。男性歌手は彼ひとりだった。バルバラのレパートリーを男性が歌うのは難しい面があるのかもしれない。
上月美智子は「口先だけで」《Du bout des levres》、「私の幼いころ」《Mon enfance》。どちらも1968年発表のバルバラのアルバム「黒い太陽」《Le soleil noir》に収録されたシャンソンだ。
「不慣れな農夫」《L'enfant laboureur》と「タンゴ・インディゴ」《Tango Indigo》を青木Fukiがエネルギッシュに客席に歌いかけた。後者は1985年、大ホールゼニットで上演されたミュージカル『リリー・パッシオン』《Lily Passion》のライヴ・アルバム中の曲。
第1部のトリは友部裕子。「夜間飛行」《Vol de nuit》は、モガドール劇場ライヴに収められた1990年の作品。
そして、バルバラがずっと大切に歌い続けた「我が最高の愛の物語」《Ma plus belle histoire d'amour》。この歌のなかでバルバラが「あなたたち」と呼びかけているのは、変わらぬ支持を寄せてくれている観客たちのことだった。
米田まりがピアノを弾きながら歌う「愛してると言えなくて」《Je ne sais pas dire》から第2部が始まった。バンドが入り、ステージ中央に立って米田は続けて「ペルランパンパン」《Perlimpinpin》を歌った。
中村扶実が歌う「リオン駅」も、他のヴァージョンの訳詞「リヨン駅」と違うので新鮮な感じだった。もう1曲、重いテーマを扱った「エイズに死す」《Sid'amour a mort 》。バルバラはこのシャンソンを常にライヴで歌っていた。
再び山森義之・福島順子のデュエットによる「いつか戻り来る人」《La ligne droite》。ムスタキもレパートリーに入れてレコーディングしている曲だ。
続いて第1部とは反対のパターンで福島がステージに残り、「ウィーンにて」《Vienne》を歌う。
これまた『リリー・パッシオン』に収録された「撃たないで」《Tire pas》。歌ったのは菅原佐知子。戦争への抗議の思いを示し、真っ赤な照明ともども強い印象を残す。
星聖姫が2曲。20歳の青年との危うい関係を仄めかす「美しい時代」《Le bel age》。そして、1978年のオランピア劇場公演で発表された「ラ・ミュージック」《La musique》。
中山エミが続く。「坊やは」《Cet enfant-la》と、バルバラの名声を大いに高めることになった「黒い鷲」《L'aigle noir》。後者もこれまで日本人歌手が歌っていた訳詞との違いが際立っていた。
ラストに登場したのは西原啓子。パリ、ドゥルオーの競売場で思い出の品を売りに出す老婦人を描いた「競売」《Drouot》からしみじみと歌い出した。
締めくくりは「秋になります」。《Il automne》。この曲も78年のオランピア・ライヴに収録されている。フランス語にはこのタイトルに見られるような言い方はない。しかし、バルバラはこの新造語を通して彼女がとらえた秋の訪れを表現したかったのだろう。
千葉訳詞が手元にないので、原詞の拙訳を掲げる。
秋になる、ひそかな足音で
秋になる、足音を忍ばせて
秋になる、乾いた足音を立てて
緋色と黄金色に彩られたの空の下で
Il automne, a pas furtifs
Il automne a pas feutres
Il automne a pas craquants
Sous un ciel pourpre
時あたかも秋が深まり行く頃。観客の誰の心にもしみ込んでいったことだろう。
これまで紹介されていなかったバルバラのレパートリーが聴けたのは収穫だ。また、ステージ進行に目を移せば、歌手出と入りのタイミングもよかったと思う。これだけの歌手が登場する場合、次の人へのバトンタッチが流れがスムーズでないと、もたついた感じが目だってしまう。昨夜はその心配はなかった。
伝え聞くところによると、歌手たちにとっても真新しい曲を覚えるのはちょっと大変だったらしい。でも、その甲斐はあった。ただバルバラのレパートリーを並べました、といったコンサートととは明らかに違う熱が、どの歌手からも感じられたからだ。
バルバラが亡くなったのは、1997年11月24日午後4時10分。
あれから6年の歳月が過ぎた。しかし、彼女のシャンソンの精神は、ここ極東の国でもいまなおその生命の輝きを失ってはいない。
いい気分で外に出た。雨が降り出していた。天国のバルバラも喜んでいるんだろうな、と思いながら青山通りを下って行った。