好きなアーティストであるアンリ・サルヴァドールと、シャンソンの世界で仕事をする扉を開いてくれた安宅克洋さんが相次いで冥界に旅立ったことで、ここしばらく心が浮かなかった。
買っておいた本のページをパラパラとやっても、目はただ行を追うばかりで内容が頭に入ってこない。
そういう場合には実用書を読む、というのが僕のやり方だ。シャンソン関連の本は仕事中に否応なく目を通すから気晴らしには向かない。
料理のレシピ本でも、パソコンの雑誌でも何でもいい。すぐに自分の手を動かすことを可能にしてくれる(少なくとも、そんな気分にさせてくれる)本が望ましい。
で、黄色い表紙が目を惹く『書斎がいらないマジック整理術』(講談社、2003年)を手に取った。新書だから手軽な感じがする。
著者はボナ植木さん。コミカルなマジックコンビ、ナポレオンズのおひとり。
相変わらず、机の上も身のまわりも本や書類が散乱しているのが実情だ。何とかしたいとは思っているのだけれど、いつも途中で気が萎えてしまう。
でも、この本を読めば素晴らしい整理術が身につくように思えた。何しろマジシャンが書いているのだ。
業種の異なる人から思いがけないアイディアを受け取ることがある。この本にもやはり、それはあった。
「いいマジックのトリックはシンプルだ」と、17ページ以下にある。その理由は、「1.失敗が少ない 2.自分で飽きがこない 3.トリックとして長持ちする」からだそうだ。
整理術にもそれは当てはまる、とボナ植木さんのお説はすがすがしく響く。それを読んで「おお、そうだ、そのはずだ」と、思わず膝を打ってしまった。
整理のための整理、というのは意味がないとしみじみ思う。確かに、本でも書類でも文房具でも整然と並んでいていつでも使える状態になっているのを見るのは心地良い。しかし、それらの物を使いやすく整理すること自体が目的となってしまうのではつまらない。
本、書類、文房具といった素材は、何らかのアウトプットの素材として存在している。僕の場合なら原稿を書いたり、講座で喋るといった行為をするためにそれらを使うわけだ。それらを瞬時に取り出しやすい状態に置いておくことができればそれでいい、と僕は考えている。
そこで、ボナ植木さんの方法を伝授して貰おうと先を読んだ。メモ帳の選び方、メモの取り方、資料の捨て方、スケジュール表の作り方にいたるまで実践的なアイディアが述べられている。
そのどれもが、ずぼらな僕でさえすぐに始められるアイディアに満ちている。
極めつけが、マジック・トランク・デスク(MTD)。
この本の表紙にそのイラストが出ている、カバンのような物体がそれだ。縦620ミリ、横700ミリ、幅230ミリの板を組み合わせてある。それに蓋がついて開閉できるようになっている。
仕事でよく使うA4ファイルを立てて並べることができる。文房具の入った箱や封筒だって収納できる。
そう、これはモバイルデスクとでも呼べる代物なのだ。家のなかのリヴィングであれ、自分の部屋であれ、空いているスペースに持ち運ぶ。そこで蓋を開けば、その場が書斎に早変わり。
もう書斎がないことを嘆くには及ばない、というスグレモノではないか。
製作したのは(株)カーペンターという会社だと出ている。いったい、値段はいくらだろう。試してみたい気もするけれど、製作費があまり高いと困るし、自作するとなると、僕には自信がないからなぁ…。
デスクそのものを書斎化する。マジシャンのこのMTDという驚くべき発想力に、まさに目からウロコが落ちる思いを味わった。
しかし、ともう怠惰な心が顔を出す。
何とかお金の工面をして、このMTDを作って貰ったとしよう。ずぼらな僕のことだから、いつの日かこれを放り出してしまうことがないとは言えない。そうなった時、このモバイルデスクは無用の長物以外の何物でもない。
ここで僕は二の足を踏んでしまう。何も始っていないのだから、引き返すのは容易だ。
ボナ植木さんの文章の書きぶりは滑らかで読みやすい。あっと言う間に最後まで読んでしまった。
いくつか記憶に残った言葉がある。「頭に血がいかないと人間はひらめかないのです」。とあって、こう続けられている。だからメモ帳を携えて歩け、とおっしゃる。「つまり、『血のめぐりがいい』とは『知のめぐりがいい』と同じなのです」。
うん、僕も歩くのは大好きだ。
「好きなことは健康と知識にいい」という言葉も頷ける。
ボナ植木さんはジャズや落語がお好きでよく聴いているという。さらにミステリー、パソコン製作、サッカー観戦、天文学…。
好奇心が旺盛であることは、やはり身体にも頭にもいいんだと思う。
「あとがき」に、名文句がもうひとつあった。
「仕事をスムーズにこなすことだけに限れば、はっきり言って、『物』や『仕事』をためなければいいということです。やれることをどんどんやっていけば、仕事で生じる資料や書類はダイエットされていくことでしょう」。
それにはMTDが一番、とある。
う〜む、どうしよう。悩んでいるうちにまた時間が経ってしまうから、とりあえずボナ植木さんの勧めに従って、目の前にある仕事に手をつけることにしよう。
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