まさに開いた口が塞がらない思いがした。
とんでもないお門違いの頼み事を警察に言ってくる輩が増えているのだという。ゴールデンウイーク最終日の昨日、5月6日付読売新聞朝刊第1面にこんな大見出しが躍っていた。「非常識110番 急増」。
呆れ返って物も言えないとはこのことだ。どんなアホな依頼が警察に寄せられているのか、記事に沿って少し見ておこう。
「足が痛くて動けない。湿布を買って持って来てくれ」(東京)。「公衆トイレにいるが、紙が切れていて困っている。持って来て」(埼玉)。「駅に着いたら雨が降っていた。傘を持っていないので家まで送ってくれ」(岐阜)…。
書き写しているだけでバカらしくなってしまう。なぜこんなあまりにも個人的な困り事を警察に言ってよこすんだろうか。
極めつけと言いたくなる要請が記事に出ている。大阪府内の警察署にひとりの男性から電話がかかってきた。「ゴキブリが家のなかに出てきて、気持ち悪い」。
応対した署員は一度は断った。が、また同じ男性から救いを求める電話があった。そこで最寄の交番にいた50歳代の男性警部補がその男性の家を訪ねた。と、ゴキブリに怯える若いカップルがいた。警部補はお邪魔虫を捕まえ、死骸をビニール袋に入れて持ち帰ったのだそうだ。
情けない。何という主体性のない態度なんだろうか。自分の身のまわりのことくらい自分で何とかしろ、と言いたい。現代はいい駆除剤だっていくらでも売っているじゃないか。
また、電話番号案内の104番にかける代わりに110番を利用しようとする者もいるという。
こんな身勝手なお願いが2007年には95万件に達した、と記事にある。バカな、という思いだ。
こんなくだらない要請を警察はきっぱりとはねつけることができないのだろうか。それがそう簡単にはいかないらしい。こんな事情があるのだ。
1999年、埼玉県桶川市の女子大生が殺された事件があった。彼女はストーカーに狙われていることを警察に相談したが、まともに相手にされずに被害者となってしまった。警察はこのことを反省して、以降は市民から寄せられる声に耳を傾けるようになったというのだ。
確かに、警察が一般市民に近い存在になってきているのは歓迎したい。警官が威張りくさっているよりはよほどましだ。僕たちも行き先を尋ねたり、落し物の申請に立ち寄ったりしやすくなろうというものだ。
とはいえ、そうした親しみやすさを逆手に取って、自分の瑣末な用事を言いつけるような真似をしていいわけがない。
そんなことも理解できない大人が、いまの日本にいるのだ。記事を読んでいるこちらが恥ずかしくなってくる。
どうして彼らはこうも無神経でいることができるんだろうか。
少子化社会に生まれ、親や周囲の人間たちに蝶よ花よと育てられたことによって、みずから考え、判断する力を養う暇もなく、姿形ばかりが大人になっているということか。そんな大人なんてどこか歪んでいるとしか思えない。
何事かをしようとする際に、果たしてこれはしていいことなのか、あるいはしてはいけないことなのか。その判断がつかない人間を大人とは呼ばない。
自分でできること、いや、自分でしなければならないことを他人に頼って恬として恥じないという生き方がいつまで通用するものか、少し思いめぐらしてみればいい。
昔の人はいい言葉を残している。
「天は自ら助くるものを助く」。英語では"Heaven helps those who help themselves."〔ヘヴン ヘルプス ゾーズ フー ヘルプ ゼムセルヴス〕。
意味するところは、「独立独行、依頼心なく、奮闘努力するものを、天は助けて幸福を与える」と『広辞苑』(第5版)にある。
フランス語にも似たような表現がある。
"Aide-toi, le Ciel t'aidera"〔エドゥ・トワ、ル スィエル テドゥラ〕。あえて直訳を掲げておくと、「みずからを助けよ、そうすれば天がお前を助けてくれるであろう」。「みずからを助ける」とは「みずから努力する」ということ。
裏を返せば、みずから努力しない者に天が救いの手を差し伸べることはない、ということにもなろう。
犯罪に関わることなら警察に駆け込むのは頷ける。
しかし、いい大人が自分ひとりで解決すべきことで忙しい人たちを煩わせてはならない。愚にもつかない些細な要望を叶えることに追いまくられて、肝腎な時に交番にお巡りさんがいないなんていう状況になっていいはずがない。
他人への依存心が強い人たちが目覚めてくれることを強く望みたい。