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 追悼 異色のシャンソン歌手 くどう べん
くどうべん さんの逝去に際し、歌手仲間の 田中 朗 さんが素敵なレクイエムを寄せてくださいました。

工藤のベン公

2003.9  田中 朗

「菅野チャン、死んで誰を連れてくかと思ったら やっぱり俺や おめェじゃなくて 伊藤和恵を連れてった。 俺だと汚ねェし、おめェだと ウルセェし・・・女なら菅ちゃん大好きだから・・。」
二十年前に菅野光亮が死んだ時、ベン公が云った言葉だった。

津軽訛りのフランス語で歌い、独特の詩を書き、高木恭三氏の津軽弁詩を何とも云えない哀愁で語った。
中でも「陽の当たらない村」−シコ アダね 村−は何度聴いても心を打たれた。名作であり、名調子であった。

漫画家の加藤芳郎にも似た風貌で、無類の酒好きだった。
『肝臓痛てェ 肝臓 痛てェ』が口癖で−
  −沈黙の臓器と言われる肝臓が痛いわけが無いのだが−
何故か若い時から老けて見えた。

最初にその唄を聴いたのは昭和三十年の前半、銀巴里だった。
三十代なかばと言うのに、四十年代後半に見えた。
その時歌っていたのがシャルル・トレネの「ブン」で自作の「親父も倅もブン 大統領もブン・・・」と歌う文句がユニークだった。
一見 無頓着で磊落に見えるが、その実 繊細で、面白く 可笑しい唄の背後に、言い知れぬ物悲しさが滲んでいた。
誰も真似の出来ない芸を持って半世紀近く歌い続けて来た男だった。

「もう ああ云う人は出て来ない」と誰もが云う。
ブラッサンスの曲を好んで取り上げて、それらがまた彼にぴったりだった。
「ゴリラ」を歌うと ベン公がゴリラに見えて来たし、「貧乏マルタン」を歌うと、マルタンがそこにいた。
時折アドリブで 突拍子もないことを挿入して笑わせたことも多い。
一面 偏屈なところもあって、酒飲み話の中でも妙に理屈を並べて譲らないことも度々だった。
それが苦手だと、ベンと酒を飲むのは御免だと敬遠もされた。
嫌われても本人は平気で、若手の歌い方を厳しく批評することも止めなかった。
意地悪からではなく、親切からなのだが、皆は逃げようとした。
つまり大久保彦左衛門みたいな存在でもあったのだ。

その工藤ベンが昨日死んだとは信じられない。
まだ十年は歌って貰いたかったのに。
ベン。そっちへ行くのはまだ早い。戻って来い。

「ああ云う人はもう出ない」という評判の裏付けのエピソードは数多い。

まず銀巴里の想い出の中から
或る日のステージ リクエストがあったからと「巴里祭」を歌い出した。
途中まで歌って来てベンは こう云った。
「アレ? いけねェ。いつの間にか巴里祭が「巴里の屋根の下」になった。」
両方とも自作の詩で歌っていたから知らないうちに脱線して隣りに行ってしまったのだろうが、誰もそれに気が付かなかった。ベンでなければ出来ないことだ。

「リラ駅の切符切り」という歌は皆がよく歌った曲だった。
ベンの前にステージに出た男がそれを歌って、終の歌詞を大声で
「小さい 穴!」 チサイ アナァアアアア・・・と 怒鳴った。
次に代わって出て来たベンは 何食わぬ顔でこう云った。
「只今のは 大きな小さい穴でした。」

昭和三十年代中頃 僕は新宿のクラブで仕事をしていた。
ピアノは伴奏の名人のジャック滋野さんだった。
そこへ ふらりとベン公が遊びに来たので、ジャックさんのピアノで一曲歌って見ないかと云って、ベンが「それでは『ハッシャ バイ』を歌う」と云って始まった。
ところが歌い出しの、ハッシャバイを ずっと いつまでも繰り返している。傍に行って
「ナンダ?どうしたのだ?」というと、小声で
「忘れた。歌詞が出て来ない」と言う。そこで
「かまう事はない、こうなったら終りまでハッシャバイでやっつけろ」と云った。
僕は冗談で云ったのに、ベンはそのまま終りまで何十回も「ハッシャバイ ハッシャバイ ハッシャ ハッシャハッシャバイ・・」と歌い続けた。
意外なことに、それは大受けだった。

「芸人の子」というシャンソンがあつて、それをベン流に「サーカスの娘ちゃん」と置き換えて歌っていた。
歌の始まる前の「語り」が津軽訛りで、「わたくしねェ これでもサーカスの踊り子なんデスぅ ハイ。観ているヒトには 華やかなンですが、踊ってるワタクシは、辛いこといっぱい アルのですゥ。ハイ。・・・」が入った。
何となく可笑しくて、その裏に哀愁が漂っている語り。あれは工藤ベンでなければ出来ない芸であった。歌い終わってこう云った。
「今の唄 工藤ベン子ちゃんでした。」
サーカスの娘ちゃんは「ベン子ちゃん」だった。

津軽弁の世界は聴くものを そのまま暗い地の果てに連れて行く。
「男デものは 旅に出て淋しくなると 酒コ飲んだり博打コしたり 女コ買ったりするもんだデ。
めんごいコ あんヒトの帰るのォいつまでも待ってイねで 早く北の ニシン場に行って 一緒に苦労してやれ。苦労してやればテなぁ・・・」 。
「一緒に苦労してやれ」にはホロリとさせられる。

「陽の当たらない村」の一節をこんな風に語っていたベンを忘れられない。
悲しみの心を癒すことは、悲しみを知らないものには出来ない。
ベンの心の奥には、決して面に出さない悲しみと淋しさが静かに並んで置かれていたようだ。

レオ フェレの三文ピアノの訳詞も素晴らしい。
「恋に破れて あれから十年 オンボロピアノが淋しそうに今日も泣いている」・・・とか
「場末のキャフェで 踊る二人に微笑みながら夜明けまで恋の歌弾いてるのだ」
そして終わりに
「ヨレヨレの千鳥足 パイプくわえて
浮世の嵐に曝されて 生きて行くのだ」

これは「ベン」自身ではないか?
ボロを纏っても心は錦。ただ一つだけ、その錦絵の中に「酒」の文字が書き込まれていたのが、これまたベンでもある。

終わりに「ベン」の訳詞 貧乏マルタンの一節をベンに捧げよう。

「貧乏マルタン 優しいマルタン 安らかにお休み
 ベン公マルタン 優しいマルタン 安らかにお休み」

あいつは好きな旅に出て ずっと遠くを歩いている。
   

   
ふたつの《CHANTE BARBARA》
2002.12  ruzeru125

 昨年、マリー・ポール・ベルがアルバム《CHANTE BARBARA》を発表し好評を受け、またそのコンサートも大成功を収めた。
 今年は、アン・ソー(ANN'SO)というまったく無名な歌手が、アコーディオニスト、ローマン・ロマネリと共に《MA PLUS BELLE HISTOIRE D'AMOUR》というバルバラ作品集を出し、コンサート共々現在大きな話題になっている。

 マリーは、日本でもシャンソンファンにはおなじみで、少し古風なシャンソンを自分で作って歌っている。デビューアルバムがディスク大賞を受けるぐらいの実力派だ。一方、アン・ソーと言えばおそらく日本中誰も知らないのではないだろうか?詳しい情報は手元にないが、どうやらミュージカル畑の出身のようだ。ロマネリが抜擢したからには、やはり実力があったということだろう。

 このふたり、まったく対照的なアーティストで、バルバラに似た雰囲気のあるマリーに対して、まったく似ていないのがアンである。マリーの声は線が細く少しビブラートがかかっているため、バルバラの歌い方に近いものがある。これに対しアンのほうは、ストレートでマイルド、とても澄んだきれいな声をしていてバルバラとは似ても似つかない。

 この性質のまったく違う、ふたつの《CHANTE BARBARA》であるが、それぞれ素晴らしいアルバムに仕上がっている。マリーは、ピアノの伴奏だけでバルバラ風に歌っている。まさにバルバラに対するオマージュである。これに対しアンは、オーケストレイションも加わり、ロマネリのアコーディオンと共にまるでシャンソン・ド・シャルムの世界を表現しているようだ。

 私は、以外にもバルバラ風マリー・ポール・ベルよりアンの盤の方が気に入ってしまっている。どちらも好きなのだが、まったく違った個性でかくも美しく表現されると、バルバラの曲の持ち味が2倍にも3倍にも広がったような気がしてならない。
 バルバラの曲は、流れるように、そっと胸にしみこんでくるような美しいメロディーを持っている。
 今回のアン・ソーのアルバムで発見したように、バルバラの曲は、いろいろな個性に適用可能である。
 今後とも3枚目、4枚目の『CHANTE BARBARA』を期待せずにはいられない。

《CHANTE BARRBARA》
Marie-Paule Belle

〈曲目〉
1. Toi
2. Attendez que ma joie revienne
3. Le bel age
4. Au bois de St.Amand
5. Drouot
6. Si La photo est bonne
7. La solitude
8. Ce matin-la
9. Madame
10. Chaque fois
11. Nantes
12. Gare de Lyon
13. Sans bagages
14. Du bout des levres
15. Petite cantate
16. Mourir pour mourir
17. Joyeux Noel
18. Le mal de vivre
19. Gottingen
20. Dis, quand reviendras-tu?
21. Elle vendait des p'tits gateaux

《MA PLUS BELLE HISTOIRE D'AMOUR》
Ann'So &Rolland Rmanelli

〈曲目〉
1. Dis, quand reviendras-tu?
2. Ce matin-la
3. A peine
4. Le soleil noir
5. Le mal de vivre
6. Ni belle,ni bonne
7. A chaque fois
8. Le testament
9. La solitude
10. Le sommeil
11. Nantes
12. Cet enfant-la
13. L'aigle noir (instrumental)

   
   
「ケルアンとシラキューズの間で」 Entre Kairouen et Syracuse
2002.10  おずぼーん

 チュニジアの聖都ケルアンから北東へ約70キロ、車で1時間ほど走ると海岸へ出た。地中海だ。ハマメットとスースの中間に位置するこの海辺には民家はおろか、人影も無い。人工的なものと言えば、白く塗られた墓標が幾柱か見えるだけだ。
 墓標の間を縫うように歩き回って草を食む子羊が数匹。ならば羊の持ち主はと辺りを見回す。居た!羊飼いは濃茶色のジェラバを着て地面にうずくまっていた。地面の色に溶け込んでいるかのようだ。フードの下からこちらを見ているに違いない。私は彼に向かって手を上げてみた。すると盛り上がった地面からヌッと一本の棒が立ち上がった。羊飼いのつえ(杖)が挨拶を返してきたのだ。
 チュニジアに限らず、マグレブでは、どこにいても必ず誰かに見られているという感覚が身についてしまう。たとえ砂漠の真ん中にいたとしても。

 こうして私は、この地に立つことを許されたような気分で、ゆっくりと海側に向きを変えた。そこには確かにブルー・ダジュール(紺碧)の海があった。
 私の中にある「メディテラネ(地中海)」の語感は、もっと華やかで、明るく、開放的なものだ。なのに、目の前に広がる海のこの静けさは、この穏やかさはどうしたことか。
 それまでの私の「メディテラネ」は、南仏の、夏の海だった。ところが目の前の海は、子羊の生まれる季節の、厚い雲のたれ込めたアフリカ側の地中海だ。遥かかなたに霞んで見えるはずの水平線が、実に近くにある。この奇妙な遠近感は澄んだ空気のせいだろうか。灼熱のシロッコの吹く季節とは対照的だ。無数の小波のほかにはなにも見えない。水平線の向こうには間違いなくシシリーの港町シラキューズがある。
 でも、ここから小舟を漕ぎ出しても、数時間後には、魔女メデューズに小舟ごと石に変えられて海の底へ沈んでしまう運命が待ち構えているような、そんな気持ちにさせられる。

 3年間のチュニジア滞在中、カルタゴをはじめ多くの遺跡めぐりをしてきたから、ガイドブックの読み過ぎだったのかも知れない。ギリシャ神話や、フェニキア時代にさほど関心のない私に恐れに近い感情を抱かせる海。これもやはり地中海なのだろうか。J'aimerais tant voir Syracuse....と口ずさんでみる。l'ile de Paques et Kairouan....。ケルアンからやってきた私はこの海岸で、もうシラキューズに想いを馳せていた。ケルアンは砂煙の向こうに消え去った。

 それから20年後の今年、9月27日から3日連続して、東京でアンリ・サルバドールを聴くことができた。赤坂・一ツ木通りの「ブン」で初めてサルバドールのレコードを聴いたのは35年前。以来、抱いてきたイメージ通りの彼がステージにいた。
 今はただ、コンサートの余韻に浸っていたい気分だ。

 83歳で出したCDがフランスの若者たちに圧倒的な支持を受け、ディスク大賞を受賞。その時のコメント
  <Je vous assure que
  j'ai commence en 1931, alors voyez-vous,
  ils ont mis un petit peu de temps, j'avoue>。
−1931年にデビューして評価されるまでに一寸ばかり時間がかかったね。

  <...mais enfin tout arrive trop tard mais c'est arrive quand meme>
−まあ、遅すぎるのが常だよ。でも、兎にも角にもそれはやってきた。

 これらのコメントのあとに例の(笑い)が数個つくのは言うまでもないだろう。

 彼はステージで「最も素晴らしい旅行とは <Voyage immobile>(動かない旅行)つまり、想像の旅行だ」と言った。彼の歌う「シラキューズ」がまったく別の意味を持ちはじめた。そこで、私はアンリ先輩の忠告に従うことにした。もう、シラキューズへもイースター島へも旅することはないだろう。それでも東京で想い出に浸れるのだから<Pour m'en souvenir a Tokyo ! > 。
実際に旅行するよりもっと素晴らしい想い出に・・・。