「菅野チャン、死んで誰を連れてくかと思ったら やっぱり俺や おめェじゃなくて 伊藤和恵を連れてった。 俺だと汚ねェし、おめェだと ウルセェし・・・女なら菅ちゃん大好きだから・・。」
二十年前に菅野光亮が死んだ時、ベン公が云った言葉だった。
津軽訛りのフランス語で歌い、独特の詩を書き、高木恭三氏の津軽弁詩を何とも云えない哀愁で語った。
中でも「陽の当たらない村」−シコ アダね 村−は何度聴いても心を打たれた。名作であり、名調子であった。
漫画家の加藤芳郎にも似た風貌で、無類の酒好きだった。
『肝臓痛てェ 肝臓 痛てェ』が口癖で−
−沈黙の臓器と言われる肝臓が痛いわけが無いのだが−
何故か若い時から老けて見えた。
最初にその唄を聴いたのは昭和三十年の前半、銀巴里だった。
三十代なかばと言うのに、四十年代後半に見えた。
その時歌っていたのがシャルル・トレネの「ブン」で自作の「親父も倅もブン 大統領もブン・・・」と歌う文句がユニークだった。
一見 無頓着で磊落に見えるが、その実 繊細で、面白く 可笑しい唄の背後に、言い知れぬ物悲しさが滲んでいた。
誰も真似の出来ない芸を持って半世紀近く歌い続けて来た男だった。
「もう ああ云う人は出て来ない」と誰もが云う。
ブラッサンスの曲を好んで取り上げて、それらがまた彼にぴったりだった。
「ゴリラ」を歌うと ベン公がゴリラに見えて来たし、「貧乏マルタン」を歌うと、マルタンがそこにいた。
時折アドリブで 突拍子もないことを挿入して笑わせたことも多い。
一面 偏屈なところもあって、酒飲み話の中でも妙に理屈を並べて譲らないことも度々だった。
それが苦手だと、ベンと酒を飲むのは御免だと敬遠もされた。
嫌われても本人は平気で、若手の歌い方を厳しく批評することも止めなかった。
意地悪からではなく、親切からなのだが、皆は逃げようとした。
つまり大久保彦左衛門みたいな存在でもあったのだ。
その工藤ベンが昨日死んだとは信じられない。
まだ十年は歌って貰いたかったのに。
ベン。そっちへ行くのはまだ早い。戻って来い。
「ああ云う人はもう出ない」という評判の裏付けのエピソードは数多い。
まず銀巴里の想い出の中から
或る日のステージ リクエストがあったからと「巴里祭」を歌い出した。
途中まで歌って来てベンは こう云った。
「アレ? いけねェ。いつの間にか巴里祭が「巴里の屋根の下」になった。」
両方とも自作の詩で歌っていたから知らないうちに脱線して隣りに行ってしまったのだろうが、誰もそれに気が付かなかった。ベンでなければ出来ないことだ。
「リラ駅の切符切り」という歌は皆がよく歌った曲だった。
ベンの前にステージに出た男がそれを歌って、終の歌詞を大声で
「小さい 穴!」 チサイ アナァアアアア・・・と 怒鳴った。
次に代わって出て来たベンは 何食わぬ顔でこう云った。
「只今のは 大きな小さい穴でした。」
昭和三十年代中頃 僕は新宿のクラブで仕事をしていた。
ピアノは伴奏の名人のジャック滋野さんだった。
そこへ ふらりとベン公が遊びに来たので、ジャックさんのピアノで一曲歌って見ないかと云って、ベンが「それでは『ハッシャ バイ』を歌う」と云って始まった。
ところが歌い出しの、ハッシャバイを ずっと いつまでも繰り返している。傍に行って
「ナンダ?どうしたのだ?」というと、小声で
「忘れた。歌詞が出て来ない」と言う。そこで
「かまう事はない、こうなったら終りまでハッシャバイでやっつけろ」と云った。
僕は冗談で云ったのに、ベンはそのまま終りまで何十回も「ハッシャバイ ハッシャバイ ハッシャ ハッシャハッシャバイ・・」と歌い続けた。
意外なことに、それは大受けだった。
「芸人の子」というシャンソンがあつて、それをベン流に「サーカスの娘ちゃん」と置き換えて歌っていた。
歌の始まる前の「語り」が津軽訛りで、「わたくしねェ これでもサーカスの踊り子なんデスぅ ハイ。観ているヒトには 華やかなンですが、踊ってるワタクシは、辛いこといっぱい アルのですゥ。ハイ。・・・」が入った。
何となく可笑しくて、その裏に哀愁が漂っている語り。あれは工藤ベンでなければ出来ない芸であった。歌い終わってこう云った。
「今の唄 工藤ベン子ちゃんでした。」
サーカスの娘ちゃんは「ベン子ちゃん」だった。
津軽弁の世界は聴くものを そのまま暗い地の果てに連れて行く。
「男デものは 旅に出て淋しくなると 酒コ飲んだり博打コしたり 女コ買ったりするもんだデ。
めんごいコ あんヒトの帰るのォいつまでも待ってイねで 早く北の ニシン場に行って 一緒に苦労してやれ。苦労してやればテなぁ・・・」 。
「一緒に苦労してやれ」にはホロリとさせられる。
「陽の当たらない村」の一節をこんな風に語っていたベンを忘れられない。
悲しみの心を癒すことは、悲しみを知らないものには出来ない。
ベンの心の奥には、決して面に出さない悲しみと淋しさが静かに並んで置かれていたようだ。
レオ フェレの三文ピアノの訳詞も素晴らしい。
「恋に破れて あれから十年 オンボロピアノが淋しそうに今日も泣いている」・・・とか
「場末のキャフェで 踊る二人に微笑みながら夜明けまで恋の歌弾いてるのだ」
そして終わりに
「ヨレヨレの千鳥足 パイプくわえて
浮世の嵐に曝されて 生きて行くのだ」
これは「ベン」自身ではないか?
ボロを纏っても心は錦。ただ一つだけ、その錦絵の中に「酒」の文字が書き込まれていたのが、これまたベンでもある。
終わりに「ベン」の訳詞 貧乏マルタンの一節をベンに捧げよう。
「貧乏マルタン 優しいマルタン 安らかにお休み
ベン公マルタン 優しいマルタン 安らかにお休み」
あいつは好きな旅に出て ずっと遠くを歩いている。